Archive for 2014

IKEA BIRRYの棚を自作してみた。

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題の通り、やってみました。

IKEAのBIRRYと言えば、棚がしなると有名(らしい)ですが、
それ以前に付属の棚板の枚数が足りない、そう思っていました。

あとから調べたところ追加で一枚1000円で購入できたらしいのですが、
今更そのためにIKEAに行くのも一苦労。持ち帰ってくるのも一苦労です。

というわけで、いっそつくってしまえ。


まず、ホームセンター(島忠)にて板を購入。
私は元々の棚を見本に持っていきました。

4枚追加の予定だったので、
「このサイズで4枚作りたいんですけど…」
と店員さんに相談したところとても丁寧な対応で
一番安く4枚の板を切り出せる、元となる木材を選んでくれました。

BIRRYの付属板は65.5x23.5
厚みは1.7mmほどです。
その板を4枚切り出すための木材は約3000円で購入しました。

元の板よりは若干厚みが足りなかったのですが、
品質的には問題なさそうだったのでそちらを購入。

私は見本の板を持っていっていたので
店頭でサイズを測ってもらうことができましたが、
本来ならばあらかじめ寸法を測っていくのがベストです。

最終的には木材加工の注文票があり、
そこに切り出しサイズを記入する必要があります。

加工自体は1枚65円と格安です。
ただし、直線の切り出しのみです。

つまり棚にかませるための溝は自分で加工せねばなりません。

まあなんとかなるだろうということで彫刻刀を購入。800円程度。

そしてここでミス。
本棚の穴にいれるあの金具。
あれのサイズが全く不明なことに気付きました。

しかも売り場に行くとサイズはかなり種類がたくさん…。
値段が高くないものだったのでとりあえずサイズ違いでいくつか購入しました。

 

(購入したのは4x5.5mmと5mmのもの、おさえで木製のダボも買いました。)

こちらは1袋150円くらいなのでまあ無駄になっても仕方ない…。
売り場にはサイズを測る器具も置いてありますので、必ず見本をもってくることをおすすめします。(ちなみにどれもサイズ合いませんでした…。)




そして、切り出された木材がこちら。

寸法は全く同じに切り出してくれています。


あとはこの元の板のように溝をつくっていくだけです。




まずは同じ箇所に印をつけます。
(結構適当です。)

あとはがしがしと彫刻刀で削っていきます。

気をつけたのは元に溝を合わせることよりも、その板の中での溝が均一になっているかということです。



一つの溝を作るのに10分弱程でしょうか…。
この作業、結構疲れました…。

そして4つの溝を掘り終え、本棚に置いてみたところ
ぴったりでした!!特にガタガタするこもありませんでした。

問題はサイズの合わなかった、金具の方です…。
元々のものよりもかなりサイズが小さいものを選んでしまったのでスカスカな状態です。そこで穴に入る部分をセロテープで厚くし、はめてみたところ、ぴったり!!
小は大を兼ねました!!

おそらく本体のダボ(金具)は6.5mmとかでしょうか…。
結構太めです。

ということで無事追加の板をつけることができました。
少し手間はかかりますが、年末に本棚も整理できて満足です。

木材+加工費で3500円
彫刻刀が800円
ダボが500円

私は無駄な買い物もしたので、
4枚分では少し高くついてしまいましたが…。
道具を持っている方でしたら正規購入よりも安くすむかもしれません。

BIRRYの板がしなりすぎてこの際全部取っ替えてしまおうかとも思いましたが(しません)。
もしそんな方がいたら、少しでも参考になると。
ダボのサイズなど焦ってネットで探したけど出てこなかったので…。

『劇場版テレクラキャノンボール 2013』

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『劇場版テレクラキャノンボール 2013』(2013)/カンパニー松尾


もうずいぶん前だが、ポレポレ東中野の再上映で
『劇場版テレクラキャノンボール』を観た。

特に内容に興味があるとか、劇場版じゃないものを知っている、とかではない。
話題になっているから、というミーハー心だ。観とかないとという焦りがあった。

出てくるAV男優に馴染みもないし、本来AVというものは映画館のようなところで観るものでない。
人と一緒に、ましてや大勢の人と一緒にみるものではない。

その日はレディースデーで私以外にも女性客がたくさんいた。
私は本当に予備知識がなかったので、観てからのお楽しみという感じで映画に臨んだ。


観た後に、私の中に生まれたのは
「AVもエンターテイメントである」
ということだった。それはなんというか、衝撃だった。

今まではなんとなく目を伏せたい、みたくない、と思っていたものが
実はこんなにも明るくハッピーな世界だったの!?
すごく噛み砕いていえばこういうことだ。

「性」のことはなかなか扱いづらいテーマである。
人によっては拒絶する人もいるだろうし、また別の人は大好きだったりする。
前者は女性で後者は男性の場合が多いが、必ずしもそうだとも限らない。

「セックス」という行為はきっと一般的には「恥ずかしい」ことである。
人に見られるなんてもってのほか。でもきっと「好き」な人は多い。
そしてそれは一人ではできない。

劇中で「人にできない事を俺たちはするんだ」みたいな言葉があった。
つまりはそこに喜びや快感を覚える男たちと、
なんとなく社会にはなじめなくなったセックスが好きな女性たちが、
出会い、交わること。これをエンターテイメントにしてしまった。

いや、最悪だ。
普通に考えれば最悪だ。

しかし、それは表現者としてはひとつの表現に間違いない。

私はやはり女なので、きゃははと笑って観るだけはできなかった。
社会の闇を感じざるを得なかったし、嫌気がさすことも当然ながらあった。

「本気でセックスしたい女性を笑うな!」
といまふと、思ったので今更この文章をかいている。

ただ作り手には、そう言う事すら全部含めて
「笑ってしまおう。遊びにしてしまおう。」
という慈悲のようなあきらめのような気持ちもあるかもしれない。

馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、可哀想だと思いながらも、
もうそう言う生き方しかできないのだから。お互いに、と。



いや、ただ、セックスが好きなだけで、女とはめまくりたいだけかもしれない。
いかんせん、性別上、評価が難しいところがある。
笑ってみることができれば吉。



左利き選手権

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Twitterにこんなブログがまわってきた。

はてなブログに投稿しました 突然ですが、私は「左利き」が異常に好きです
 - それは恋とか愛とかの類ではなくて

はっとした。
私もまさにこれだから。

同じ空間にいる人が“左利き”と気付いた瞬間に少しどきっとする。
「あ、あの人“左利き”だ。」そうひそかに思っている。
おそらく“左利き”に関しては一般的な感覚より敏感であると思う。

“左利き”であるだけでなんとなくその人は美化されてしまう。

いいなと思った人が“左利き”だったら「やっぱり!」で+5
なんでもない人が“左利き”でも「あ、あの人左利きだ。」で+2
ちょっと嫌いなやつが“左利き”だったらマイナスポイントを相殺できるくらいのパワーは持っている。

どうしてこんなにも“左利き”に惹かれるのだろうか。
“左利き”が好きな理由を少し考えてみる。

ひとつは、ないものねだりだ。
自分にないものをもっている人への憧れ。
自分にはできないことができることへの羨望。

もうひとつは、大多数とは異なっていること。
“左利き”はいわゆる少数派である。
ふつうとは違うんだぞ、というレア感。

さらにもうひとつ、好きな人が“左利き”だった。
なんてこともあるかもしれない。


“左利き”に憧れていた私はあるとき母にこういった事がある。
「どうして“左利き”に育ててくれなかったの」と。
そしたら意外にもすごい剣幕で怒られてしまって、言わなきゃよかったと後悔したものだ。

“左利き”という少数派は人と違うということで
ある時代には差別的な扱いを受けていたこともある。
右利きに強制され、“左利き”はなかったことにされた。


10人に1人くらいはみかけるようになった“左利き”の存在。
前述のブログの通り“左利き”に「萌え」を感じる人、憧れている人は
案外多かったりするのではないだろうか。

題目にした「左利き選手権」は
そんな“左利き”に対する熱い想いを映像化しようと、
大学のときに思いついたお話である。

〜あらすじ〜

とかいって書かないけれども、
“左利き”っていいよねという話に違いない。

中学生のときに毎週通っていたジャスコのゲームコーナーのお兄さんが
“左利き”だったなんてことはとうの昔のお話である。









髪型は人生を変える。

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人は見た目が9割、とはよく聞く話だ。
これはあながち間違っていない。

「人間、中身だよ。」

なんていったところで、なかなかそうはいかないものだ。
人生で自分のことを中身で評価してくれる人間と何人出会えるだろうか。


先日、美容室に行った。
なかなか行きつけが決まらず、そこも初めての美容室だった。

髪を伸ばそう。
と思っても、ショートヘアーからは長い道のりだ。
途中で飽きてしまう。

だから私はパーマをかけようと思ったのだ。
「その長さでパーマかけたら変になるよ」
なんて友達に忠告を受けてもなお、現状を変えようとしたのだ。


結果は惨敗。
一時の市原隼人である。
つまりはまるでツイストパーマだ。


パーマは何度かかけたことがあった。
髪が傷むとはいうが、はたしてこれは…。
思ってた以上強くかかったパーマに
私はこんなものだろう、そのうちなじむだろう、
と納得しようとしていた。

しかし私の髪は縮れたままだった。
こんな感じにしてください、
と見せたナチュラル女子の画像とはかけ離れたヤンキーヘアー。


それからの私の人生は散々だった。
思考はすべて暗くなり、鏡を見るのも嫌になる。
人に会うのも、人が多い場所に行くのも嫌になる。
美容院を恨み、どうにかして復讐を、と企む。

卑屈の極み。


社会の中で生活をしていれば、
少なからず「自尊心」というものがある。

つまりは私はその自尊心がズタズタになってしまったのだ。
髪型のせいで。

髪型のせいで、そんな。

なんて思うかもしれない。
私もそれが自分でなかったら、
そう思うかもしれない。

いやいや、あなた。
とんでもない。

髪型で人生も変わるのだ。



この話はつまり、髪型でなくともいい。
いわゆる「コンプレックス」。

それは自分自身の自尊心を傷つけるものだ。

自分に自信がなく、
他人の評価を気にして、卑屈になり、
しまいにはどうでもよくなって努力を怠り、他人を批判する。

このスパイラルと縁がある人も無縁の人も世の中にはいるだろう。

コンプレックスを抱えながらどうやって生きていくか。
なんてそんな漠然とした問いの答えを探すつもりはない。



これはただの経験談。
早くサラサラヘアーに戻りたい。
それだけの話である。


じぶんのこと

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私は友達も多くないし、自分に自信があるわけでも、
なにかひとつのことをがむしゃらに頑張っているわけでもない。

かといって自分のことを
100%嫌いになることはできず、
中途半端な人間だと思ってる。

頑張っている人やそれに伴う技術がある人をみると
もやもやは止まらなくなるし、
だからってそこからなにかに本気で取り組むわけでもない。

ちょっと手を出して、終わりだ。


テレビで活躍するアスリートを「すごい」と賞賛する。
彼らはその「すごい」のための凄まじい努力と時間を犠牲にしてきた。
それしかない人生だ。

スケートならスケート。
テニスならテニス。

私は、中途半端もいいな、と思ったことがある。
中途半端のいいところはよくいえば、柔軟なところだ。

私の毎日はスケートを中心にまわらないし、
パパラッチにも追いかけられない。

中途半端な人間の中途半端な日常だ。
好きな時に好きなところに行けて、
誰を好きになってもどんな音楽を聴いていても
Twitterでなにをつぶやいたって炎上しない。


そういう人生も悪くないなー
と、これはもう半分は諦めで、思ったことがある。

今の私はどうだ?


今の自分を好きなれるかといえば、
答えはノーだ。
全然好きじゃない。

でもたまにおまえのこういうところいいじゃん
と思える時もある。


もっと自分を好きな自分になれ。
そういう自分になれる努力をしろ、と。

言葉でも説明できるのに。

私は親孝行の仕方もわからないし。


自分を省みて思い浮かぶのはおばあちゃんの顔で、
そして「ごめんね」と思う。

こんな私でごめん。


いつまでたっても消えない後悔をどう形にするか。
私はどうにかしてこれを別の形に変えて人に伝えたいのだ。

きっと、そうしない限り自分を許せないのだと思う。
そして逆にそれが自分を苦しめることになるかもしれない。
全然うまくいかないかもしれない。

それでも、死ぬまでに。
自己満足したいのだ。




思考

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ふと死んだ友人の言葉を思い出した。


「100人いたらその中のたった1人がいいっていってくれるくらいでいい」


という言葉だ。


そのときはおそらく、その言葉にさして興味もなく、
そしておそらくはわたしはそれじゃ嫌だと思ったと思う。


わたしはできれば100人いたらすくなくとも半分くらいはいいといってほしい。
そうじゃない作品は人前に晒したくないとそんなこと思っていたかもしれない。


もはやそのこと自体はどうでもいい。
だって当たり前のことだから。


いまのわたしがあのときのあの子に追いついたのかなって思ったのだ。
私の思考があのときのあの子に重なったのかなって思ったのだ。


別に優劣の話ではない。
ただ、こんな気持ちだったのかなって思っただけだ。


自分自身の言葉や作品を人前に晒すことに対して、
そういうのは自己防衛であるけど、その自己防衛は晒す勇気を持った証拠でもある。


そして自分の作品をきちんと省みている証拠でもある。


できたらそれでいい、ということではない、ということだ。


自分の作品は批判されて成長する。
そうでなければ自分のための作品になってしまう。


全部そういうことをひっくるめて、思い出したのだ。






はきだめ

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作品を作るとは一体何か。
いったいなにか。

いつの間にか私はつくりたいものがなくなっていることに気づく。
自分の中から外に吐き出したいものが思いつかないことに気づく。

技術を求めらてれそれにこたえることに慣れる。
作品は完成して、納得してもらえる。

これでよかったのか?

ふと我に返る。
わたしなにがしたかったんだっけと。

私はそれでいい。
それでいいと思っていた。
本当にそれでいいと思っていた。いつのまにか。

なにものねだりの度が過ぎて、他人の賞賛や批判ばかりをする。
それにも慣れて、当たり前になる。

自分が近づきたいものに近づくためには
丁寧に時間をかけて近づいていかねばならない。
技術をみにつけるためにはそれに比例して時間が必要なのに。
知っているのにわたしは努力を怠っている。もうずうっと。
簡単にいいものが出来る方法ばかり探している。
そうしたらその程度のものしかできないことも知っている。

「MVを撮って」と言われるのはわたしは嬉しかった。
これで自分を表現できると、少なからずそのときは思っていたはずだ。
いまのわたしは空っぽで、本当に技術を提供しているだけだ。
わたしはそれでいいと思った。ついこの前まで。

わたしが撮影したものを、編集したものを、作品といってくれるひと。
わたしの、作品、増田美月の作品、といってくれる人。

ゆっくりと考える。

漫画が描きたいだのバンドがやりたいだの映画が撮りたいだの、
じゃあいざ人前にそれを出せるのか人前でなにかできるのか
自分自身を表現できるのか、
いざ
そう言われたとき、
わたしは「いいや」って思った。
それは「無理」ということだ。

それは技術的にというのももちろんだが、度胸がなかった。勇気もなかった。

ゆっくりと考える。

自分がやりたかったこと。

表現、というのは「恥ずかしい」ことだ。
それは自分を晒すことである。

わたしはそれを避けるために人を通して作品を撮って、自身の表現から逃げた。
直接的にわたしは批判されない。知られることもないかもしれない。
つまりは自己満足だ。

ただのビビリ野郎だったのだ、わたしは。
大嫌いな口だけ野郎だ。

それでもなんとか自分が嫌いな人間にならないようにギリギリ首の皮一枚つないでいた。
中途半端な気持ちで。

作品に自信がないわけではない。

でもやはり素人に毛が生えた技術であるとしか思えない。自分の作品は。
ごまかしてごまかしてなんとか人前に晒せる。
これはすごく失礼な話だが、わたしはそう思っている。
自分に自信がない。

技術を道具として求められる一方で、わたしの内面を作品として吐き出してみないか
と言われたことがいまこの悶々とした考えに至る部分である。

それは普通に考えればチャンスだ。
自分をアーティストとして、クリエイターとして表現できるチャンスだ。

でもわたしにとってそれはとても恥ずかしくて、みっともないことのような
そうなってしまうような気がしてならない。
それは今のわたしに「生み出してやる」という気持ちがないからだ。

「近づく」
これがわたしの作品の作り方になっていた。
いかに、近づくか。真似するか。
いつのまにか。
「生み出す」
ことを忘れる。

作品づくりは模倣からはじまる。
それは嘘ではないと思う。
第一人者はいたとしても模倣の連続だ。
それはそれでいい。

わたしに至っては模倣の模倣だ。
とてもつまらない。

わたしは具体的な表現をしたくない。
という結論に至る。

作品はエンターテイメントでよい。

だからきっと悶々としている。

作品を通してその人を感じることができるのは素晴らしいことだし、
作品がすきということはその作家がすきであるということだ。

ないものねだりだろうか。

エンターテイメントさえ生み出せないわたしが、


ゆっくり考える


人生のルーツ