作品を作るとは一体何か。
いったいなにか。
いつの間にか私はつくりたいものがなくなっていることに気づく。
自分の中から外に吐き出したいものが思いつかないことに気づく。
技術を求めらてれそれにこたえることに慣れる。
作品は完成して、納得してもらえる。
これでよかったのか?
ふと我に返る。
わたしなにがしたかったんだっけと。
私はそれでいい。
それでいいと思っていた。
本当にそれでいいと思っていた。いつのまにか。
なにものねだりの度が過ぎて、他人の賞賛や批判ばかりをする。
それにも慣れて、当たり前になる。
自分が近づきたいものに近づくためには
丁寧に時間をかけて近づいていかねばならない。
技術をみにつけるためにはそれに比例して時間が必要なのに。
知っているのにわたしは努力を怠っている。もうずうっと。
簡単にいいものが出来る方法ばかり探している。
そうしたらその程度のものしかできないことも知っている。
「MVを撮って」と言われるのはわたしは嬉しかった。
これで自分を表現できると、少なからずそのときは思っていたはずだ。
いまのわたしは空っぽで、本当に技術を提供しているだけだ。
わたしはそれでいいと思った。ついこの前まで。
わたしが撮影したものを、編集したものを、作品といってくれるひと。
わたしの、作品、増田美月の作品、といってくれる人。
ゆっくりと考える。
漫画が描きたいだのバンドがやりたいだの映画が撮りたいだの、
じゃあいざ人前にそれを出せるのか人前でなにかできるのか
自分自身を表現できるのか、
いざ
そう言われたとき、
わたしは「いいや」って思った。
それは「無理」ということだ。
それは技術的にというのももちろんだが、度胸がなかった。勇気もなかった。
ゆっくりと考える。
自分がやりたかったこと。
表現、というのは「恥ずかしい」ことだ。
それは自分を晒すことである。
わたしはそれを避けるために人を通して作品を撮って、自身の表現から逃げた。
直接的にわたしは批判されない。知られることもないかもしれない。
つまりは自己満足だ。
ただのビビリ野郎だったのだ、わたしは。
大嫌いな口だけ野郎だ。
それでもなんとか自分が嫌いな人間にならないようにギリギリ首の皮一枚つないでいた。
中途半端な気持ちで。
作品に自信がないわけではない。
でもやはり素人に毛が生えた技術であるとしか思えない。自分の作品は。
ごまかしてごまかしてなんとか人前に晒せる。
これはすごく失礼な話だが、わたしはそう思っている。
自分に自信がない。
技術を道具として求められる一方で、わたしの内面を作品として吐き出してみないか
と言われたことがいまこの悶々とした考えに至る部分である。
それは普通に考えればチャンスだ。
自分をアーティストとして、クリエイターとして表現できるチャンスだ。
でもわたしにとってそれはとても恥ずかしくて、みっともないことのような
そうなってしまうような気がしてならない。
それは今のわたしに「生み出してやる」という気持ちがないからだ。
「近づく」
これがわたしの作品の作り方になっていた。
いかに、近づくか。真似するか。
いつのまにか。
「生み出す」
ことを忘れる。
作品づくりは模倣からはじまる。
それは嘘ではないと思う。
第一人者はいたとしても模倣の連続だ。
それはそれでいい。
わたしに至っては模倣の模倣だ。
とてもつまらない。
わたしは具体的な表現をしたくない。
という結論に至る。
作品はエンターテイメントでよい。
だからきっと悶々としている。
作品を通してその人を感じることができるのは素晴らしいことだし、
作品がすきということはその作家がすきであるということだ。
ないものねだりだろうか。
エンターテイメントさえ生み出せないわたしが、
ゆっくり考える
人生のルーツ
はきだめ
This entry was posted on 2014-09-02. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response.