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『カンビュセスの籤』自分勝手考察
藤子を知っている人ならば言わずもがなの名作
『カンビュセスの籤』。
私が藤子短編集をはじめて読んだのはおそらく中学生の頃。(2002年頃)
『ドラえもん』をはじめ藤子作品は小さい頃から親しんでいたが
この短編集にであったときは今まで知っていた藤子作品とは違う
なにやら新しいものを見つけた気持ちで嬉しく、ワクワクしていた。
作品に描かれている時代よりもはるかに未来を生きているのに
すごくしっくりくる。
とはいえ中学生の私にはよくわからない作品も多かった。
その一つに『カンビュセスの籤』というものがある。
作品の概要は、至る所で丁寧に紹介されているので省略する。
この作品、はじめて読んだときは私は??という感じだった。
おそらくカニバリズムという概念もなかったし、
テーマに対して深く掘り下げるような情報を持っていなかったのだと思う。
歳を重ねて、読み返した時にラストシーンを読んで衝撃が走った記憶がある。
この作品は、歴史的な出来事を題材に、
なぜ人は争うのか、なぜ生きたいのか、生きるために必要なこと(衣食住・環境)、生きることへの執着、
テーマはひとつではないが
史実とSFを混ぜて、生き延びたいというエゴイズムを描いている。
そしてラストシーン。
裸になったエステルが「ミートキューブの作り方はね・・・」
と笑顔で男に説明をするシーンで終わる。
そう、そこでこのお話は終わる。
なるほど、と私はいろいろと納得した。
エステルが「ごめんなさい、ひげは好みじゃなかったの」とか
男の胸を借りておいおいと泣いたり、嫌いな人に食べられなくてよかったわ、とか言ったり。
このお話が男と女であった意味も
あそこで物語が終わる意味も
私の考えはひとつの結末に集約してしまった。
「ミートキューブの作り方はね・・・」は
「人(赤ちゃん)の作り方はね・・・」と
置き換えられるのではないか・・・。
その思ってこのラストシーンをみると本当に鳥肌が立つというか
ハッとさせられてしまったのだった。
例えばこのお話は、
男が泣きながらエステルのミートキューブを食べているシーンで終わってもよかった。
そもそもそんな極限状態の中で子供なんか作ってられるか
生まれたところで育てられんわ、みたいなことを私も冷静に考えたりしたが、
神話的な思考で読むと、二人はアダムとイブで、人類のはじまりでもある。
最後のページをどう読み解くか、それは読み手次第であり、
ここに書いてあることは、私の個人的な考察である。
私にとって藤子作品は毎回読むたびに発見があって、
それは自分が歳をとったり、環境の変化によってもかわっていく。
特に短編集は歳をとるにつれて深く突き刺さることも。
誰かと共感したいなと思ってもなかなかうまくいかなかったりもする。
それでも大好きな作品のことは誰かと語りあいたかったりする。
私も大人になったな。。
と思わざるをえない、藤子短編集の考察。
2017.12.3
『米とりんご』
アップデイトダンスNo.39「米とりんご」
振付 勅使川原三郎 ダンス 鰐川枝里
鰐川枝里
というダンサーがいる。
彼女とはたまたま同級生だった。
暗闇の中、風がごうごうと吹く音が聞こえる。
目を瞑った時と同じ、本当の暗闇だ。
不安を煽るように、ただただごうごうと、音は鳴り続ける。
ステージにうっすらと光が差す。
仄暗い、本当にわずかな光だ。
その灯に照らされて、ひそやかにたたかいがはじまる。
私はこの公演を、半年前に一度観ていた。
その時の衝撃は、世界的な発見といってもいいような感覚だと思う。
あの、小さく細い体のどこに凄まじいエネルギーが詰まっているのかと
感嘆するばかりで、それと同時に、脆く、壊れそうなことに涙がでそうになる。
そしてそれはとても美しい、のだと観客は皆思うだろう。
聞き覚えのある童謡が無機質に流れ始める。
これは今までに見たことがない光景で、
おそらく異様だと思う。
童謡は一曲から、二曲、三曲と次々と重なり合って、
不況和音のようにミックスされる。
その全てを受けいれながら、彼女は踊り続ける。
何百本もの操り糸が見える。
私はそんな気がしていた。
まさに混沌である。
音楽が止まらなければ彼女は永遠に踊り続けるのじゃないのかと、
不安になりつつも、なんだかずっと観ていたいような
複雑な気持ちになる。
これが演出といわれればそうでしかないとは思う。
彼女そのものだと言われればそれもまたそう思う。
とても最小限の自己表現を全身全霊ですることが、
一番彼女を輝かせて、すべてを放出していく。
小さくてとても強い炎が中心にみえて、
絶対に消えないように燃えている。
美しいものは脆いのだと、
だからこそ美しいのだと、
なんだか昔から知っている気がする。
そして人の手というものは
光をあてるとほのかに光るということを
私はKARASの公演を何度かみて知った。
手のひらを太陽にかざしてみれば
真っ赤にながれる僕の血潮
という曲を思い出して、
あの光は体に血がめぐっているということなのだと、
生きているということなのだと改めて感じる。
若さなのか才能なのか、
おそらく言われたことがとても器用にできてしまうのか、
彼女のダンスには変な癖がないと、私は思う。
もちろん良い意味でそれはらしさだと思う。
素人の私がいうのも変な話であるが、
演技がうまいとか、たぶんそういう類の話に近い。
つまり、とても見やすくて、
音楽に合っていると感じる。
クラシカルなコンテンポラリーと
調和したポップさが心地よいと感じる。
私が彼女の同級生だから公演を観に行く。
とか、もはやそういうことではなくなっていることに私はそろそろ気が付く。
半年前、はじめてソロ公演を観た時に、
私はすでにもう一度観たいと感じてしまっていたのだ。
もう、彼女の魅力はまったくもってそれだけで存在していた。
知り合いだからとか、友達だからとか、そういうことでなく、
鰐川枝里という一人のダンサーとして、魅力を感じているのだと
気が付いた。
鰐川枝里
という素晴らしいダンサーがいて、
私は運がいいことにたまたま同級生だったのだ。
星が美しく輝くのは、
命を削りながら燃えているのだと、
小さい頃に習った。
漠然と日々の生活を送っていると、
そんなことも忘れてしまって
夜空の星を見上げても何も思わなくなったりする。
いざ、目の前でそれを突きつけられたら
立ちすくむしかできなくなって、
ただ受け入れるだけじゃもったいないと感じる。
ステージの上で彼女が大きく呼吸をする。
吸い付くように肋が浮かび上がって、
遠いところを見つめる表情を見える。
小さい体をめいっぱいに広げて、
大きく手を伸ばす。
その手は助けを求めているようにも見えれば、
水の中、もがき苦しんでいるようにも見えれば、
とても気持ち良く浮遊しているようにも見える。
たたかいが終わった後の彼女は、
いつも笑っている。
近くに立つと本当に小さくて細いことがわかる。
私はいつもなんと声をかけてよいのやら困る。
ありきたりな言葉で表現してよいほど簡単なものじゃないような気がして、
悶々としている。
驚くほど彼女が謙虚なので、どつきたくなるが
どつくど折れてしまいそうなのでどつかない。
炎が小さく強く燃え続けている間、
私はひそやかに観察しようと思っている。
2016.9.17
太陽
ニュースでは知れなかった部分まで、この映画は教えてくれる。
誰にも知られず起こってしまった悲劇や結末まで。
やっぱりかなしいな。
私はそう思ってみていた。
『リップヴァンウィンクルの花嫁』
失礼ながら私は岩井俊二監督の作品があまり好きではない。
私が好きになりたくないというようなそういう意味である。
と言われたとしても、それ以外の言葉でなんとなくカテゴライズされたとしても、
私にとってこの映画はよかったし、その気持ちはむしろ大事にすべきである。
逆にその反対もいるだろうと思う。でもそんなことはもはやどうでもよい。
まだそこまで気持ちは到達していない。
少し忘れて没頭してしまっていた。
それは監督の被写体への愛であると思えば大した長さではない。
演じることになんの抵抗もない、というようことが書いてある。
不確かな気持ちのまま、登場人物たちを観察している。
どこかで本当に起きているような気もする。
冗談めいた演出には思わず笑ってしまうし、おそらく本気で遊んでいるのだろうと思う。
やはり、真白の母の元を訪れたシーンは突き動かされるものがあった。
ひとつのキッカケから3人のなにかがボロッと壊れて、泣いて、笑う。
気が付いたら私も泣いて、笑っている。
きっと七海もそうだったのではないかとラストシーンの、表情を思い出す。
『バケモノの子』(2015)
天使の墓
「また、お墓が増えましたね。」
白い服をきた少年が言った。
「このままだと、増え続ける一方ですね。」
少年は、隣にいる白い髭を生やした老年の男性に向かってそう言った。
「なぜこんなことをするのでしょうか?」
男性は特に表情を変えずに答えた。
「石はとても、記憶力がいい。」
「なるほど。」
少年の背中には真っ白な翼が生えていた。