『バケモノの子』(2015)




『バケモノの子』(2015)/細田守


細田守監督作品がなぜか好きになれなかった。
やりたいことが先走り、細部の感情をすっとばしているように思えていた。
あくまでファンタジーだから細かいリアリティーは必要ない。

たしかにそういわれればそうだ。
物語で描かれない部分は補完して考える事も出来る。
もちろんすべてを丁寧に描く必要もない。
ただなんとなく雑な気がしていたのだ。

『バケモノの子』をきっかけにそんな考えを見直すことになりそうだ。

よく見かけるようなことを言ってしまうが、
物語は予定調和的な展開を持っている。

人間の男の子が日常から非日常世界へ迷い込み、成長していくお話だ。

ただ思っている以上にそれだけではない。
「ごちゃついている」と言われるように要素が多い。
しかしそれがこのお話の大事な部分であると思う。

物語のきっかけは「人の心の闇」である。
孤独、憎悪、哀しみ
蓮(=九太)は幼いながらにその闇に直面してしまう。
自分以外、自分すらも受け入れられず一人で生きていこうとするが、
異世界と邂逅することにより道を拓く。

熊轍との出会いは九太のカラダとこころの成長させた。
正直、九太は性格のよい主人公ではない。
かなりわがままで自分勝手である。
それは強く成長しても変わらなかった。

渋天街で8年の歳月が過ぎ、
たくさんの仲間に恵まれ立派に成長した九太であったが、
目標としていた強い自分になれたものの、
精神的には満たされていなかった。
両親への想いや人間として自己は忘れられなかった。

それが、ふとしたことで人間界へ戻り一気に高まっていく。

人間としての自分を取り戻したい、再生をのぞむ九太に対して、
人間としての自分を恨み人間自体が憎悪に変わっていくのが一郎彦である。


二人の闇は全く違うようにみえて同じものだ。
きっと、それは細田監督自身が抱えた闇でもある。
「孤独」というものはどんなに才能があっても、技術をもっても、
誰にでもおとずれる可能性をもった闇だ。
信じることができないとき、特にその闇はやってくる。

目標としていた強さは、いつのまにか、憎しみを増幅する力となってしまう。
鯨を追うことに盲目になるあまり、周囲を顧みず、人を傷つけ、そして自分自身が鯨という闇に取り込まれる。


一郎彦は鯨に取り込まれたもう一人のキュウタの象徴だ。


自分の存在について、何者かというアイデンティティを確立できないでいるのは
私たちに対する問いであり、きっと監督自身が抱える問題そのものでもある。
失ってしまった母、記憶の中にしかいなかった父がいる現実、
バケモノとして育てられた人間、


物語の最後、光が見えるのは、
監督自身がそれを求めているからだろうか。



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『バケモノの子』を観た日、たまたまガラスの話をした。

「昔みたアニメでさ、」

当時「おジャ魔女どれみ」のある回で「ガラスが実は動いている」という話があった。
私の中でその回が印象的で忘れられずにいた。
そして今日、たまたまその回の演出が細田守と知る。

知らない間に、同じ人から全く別の影響を受けている。
そのときとは、作った本人も私自身も変わっているのだろうに。







This entry was posted on 2015-08-04. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response.

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