アップデイトダンスNo.39「米とりんご」
振付 勅使川原三郎 ダンス 鰐川枝里
鰐川枝里
というダンサーがいる。
彼女とはたまたま同級生だった。
暗闇の中、風がごうごうと吹く音が聞こえる。
目を瞑った時と同じ、本当の暗闇だ。
不安を煽るように、ただただごうごうと、音は鳴り続ける。
ステージにうっすらと光が差す。
仄暗い、本当にわずかな光だ。
その灯に照らされて、ひそやかにたたかいがはじまる。
私はこの公演を、半年前に一度観ていた。
その時の衝撃は、世界的な発見といってもいいような感覚だと思う。
あの、小さく細い体のどこに凄まじいエネルギーが詰まっているのかと
感嘆するばかりで、それと同時に、脆く、壊れそうなことに涙がでそうになる。
そしてそれはとても美しい、のだと観客は皆思うだろう。
聞き覚えのある童謡が無機質に流れ始める。
これは今までに見たことがない光景で、
おそらく異様だと思う。
童謡は一曲から、二曲、三曲と次々と重なり合って、
不況和音のようにミックスされる。
その全てを受けいれながら、彼女は踊り続ける。
何百本もの操り糸が見える。
私はそんな気がしていた。
まさに混沌である。
音楽が止まらなければ彼女は永遠に踊り続けるのじゃないのかと、
不安になりつつも、なんだかずっと観ていたいような
複雑な気持ちになる。
これが演出といわれればそうでしかないとは思う。
彼女そのものだと言われればそれもまたそう思う。
とても最小限の自己表現を全身全霊ですることが、
一番彼女を輝かせて、すべてを放出していく。
小さくてとても強い炎が中心にみえて、
絶対に消えないように燃えている。
美しいものは脆いのだと、
だからこそ美しいのだと、
なんだか昔から知っている気がする。
そして人の手というものは
光をあてるとほのかに光るということを
私はKARASの公演を何度かみて知った。
手のひらを太陽にかざしてみれば
真っ赤にながれる僕の血潮
という曲を思い出して、
あの光は体に血がめぐっているということなのだと、
生きているということなのだと改めて感じる。
若さなのか才能なのか、
おそらく言われたことがとても器用にできてしまうのか、
彼女のダンスには変な癖がないと、私は思う。
もちろん良い意味でそれはらしさだと思う。
素人の私がいうのも変な話であるが、
演技がうまいとか、たぶんそういう類の話に近い。
つまり、とても見やすくて、
音楽に合っていると感じる。
クラシカルなコンテンポラリーと
調和したポップさが心地よいと感じる。
私が彼女の同級生だから公演を観に行く。
とか、もはやそういうことではなくなっていることに私はそろそろ気が付く。
半年前、はじめてソロ公演を観た時に、
私はすでにもう一度観たいと感じてしまっていたのだ。
もう、彼女の魅力はまったくもってそれだけで存在していた。
知り合いだからとか、友達だからとか、そういうことでなく、
鰐川枝里という一人のダンサーとして、魅力を感じているのだと
気が付いた。
鰐川枝里
という素晴らしいダンサーがいて、
私は運がいいことにたまたま同級生だったのだ。
星が美しく輝くのは、
命を削りながら燃えているのだと、
小さい頃に習った。
漠然と日々の生活を送っていると、
そんなことも忘れてしまって
夜空の星を見上げても何も思わなくなったりする。
いざ、目の前でそれを突きつけられたら
立ちすくむしかできなくなって、
ただ受け入れるだけじゃもったいないと感じる。
ステージの上で彼女が大きく呼吸をする。
吸い付くように肋が浮かび上がって、
遠いところを見つめる表情を見える。
小さい体をめいっぱいに広げて、
大きく手を伸ばす。
その手は助けを求めているようにも見えれば、
水の中、もがき苦しんでいるようにも見えれば、
とても気持ち良く浮遊しているようにも見える。
たたかいが終わった後の彼女は、
いつも笑っている。
近くに立つと本当に小さくて細いことがわかる。
私はいつもなんと声をかけてよいのやら困る。
ありきたりな言葉で表現してよいほど簡単なものじゃないような気がして、
悶々としている。
驚くほど彼女が謙虚なので、どつきたくなるが
どつくど折れてしまいそうなのでどつかない。
炎が小さく強く燃え続けている間、
私はひそやかに観察しようと思っている。
2016.9.17
『米とりんご』
This entry was posted on 2016-09-18. You can follow any responses to this entry through the RSS 2.0. You can leave a response.