岡本羽衣 個展『ありうる』




岡本羽衣 個展『ありうる』
トークイベント「記憶と忘却」
ゲスト 飯山由貴




住宅街の中の小さな民家の前に小さく看板が出されている。
入り口には本個展の作家である岡本羽衣が立っていた。


展示スペースに入ると
右側に小さめの額が4つ
左側にパノラマの写真
天井には下半身だけ飛び出た男のオブジェ
床にはその男が残していったであろう靴や時計が置かれている。

小さめの額に入っているのは
海外の古い写真
(ペンダントの中に入れる丸く切り抜かれたものと、額縁のついた四角いもの)
に噛まれたガムが意図的な形で貼付けられている。

左のパノラマ写真はどこかの風景
その上にガラスが一枚あり、そのガラスは黒い液体で
めちゃくちゃに塗りたくられていてその下の写真に関してはよくみえない。

天井にぶらさがった男の下半身は妙にリアルで、少し気味が悪い感じである。

後ろの方でほかのお客さんに
「これはこの男がこういう(展示されているものに対して)行為をしていったあとだ。」
と説明している展示主の声が聞こえた。


その後、飯山由貴さんとのトークショーがはじまった。

今回の展示では、
既存のモノー今回に関しては、19世紀アメリカの肖像写真ーに手を加え、
それを作品として展示をしている。

例えばその肖像写真は、当時の彼または彼女をとりまく人および本人が、
写真をつよく遺したいという思いから、現像されたものである。
当時、いまのように気軽に写真を遺せる時代ではない。
その写真は過去にも現在にも属せない不透明な存在であると作家はいう。
名前もわからない彼らは、今なぜか日本の小さな民家でガムをつけられ飾られている。
なにかしら人の想いがあって撮られたその写真は、いまや物質としてとらえられている。
そこに手を加えることによって、写真に映った彼らに実体を与えたい、
僕の手によって現在にひっぱりだしてやりたかった。と作家はいう。
また、写真の上から写真を覆うように塗りたくられている黒い液体。
それによって私たちは写真をみたいと思っているのに、写真をきちんとみることができない。
そのときすでにその下にある写真は、こういう写真です、という認識とは別のものとして
成り立ってしまっている。黒い液体とともに別のものに姿を変えてしまっている。
本来の姿ではなく、そこになにかあるけれどよくわからない、不透明な存在である。
そしてその写真はもう、見る人全員が同じ感覚でみることはなくなる。
我々が目の前にあるものを認識するためには、周囲と共通の認識が必要である。
例えば、目の前にコップがあったとして、それは誰しもがコップだと知っている。
コップとは液体を入れる器で、その素材はガラスであったり、プラスチックであったりする。
そういう認識が我々には共通で存在していて、それが当たり前だと思っている。
しかし、中にはその認識が不透明なものもある。
例えば今回の肖像写真ー羽衣は「遺影」と説明したーである。
はっきりとした形のものがなにかのきっかけに不透明になる。
不透明なものがなにか別の形になる、それは「ありうる」。

架空の男が行為を加えたという前提の中で、
彼の作品をみるひとは考える。そこには既存のものに手を加えるうしろめたさがあるのかと。
作家はそうではない。と答える。そこにそこまで抵抗はない。

今回使用した肖像写真はネットオークションから手に入れたものだという。
それを選ぶ基準は作家本人のインスピレーションだ。
あ、この人いいな、とかそういった感覚で選んでいるらしい。
その写真は物質としてとらえていて、当時の記録という感覚はそこまでないという。

人の記憶とは経験と知識から構成される。
私たちが遠い昔の歴史を知っているのは義務教育で学んだ知識からだ。
でもその当時の事実なんて現在の世界に生きている人は何一つわからない。
それは伝聞や、誰かの日記や記録、のこされた物質をたよりに、再構成されたものである。
だから私たちは自分が生まれる前のことなど知るはずもない。
なんで知っているのかがわからないと、飯山さん。

飯山由貴さんは他人が作成したスクラップブックを利用した作品を展開する作家のようだ。
飯山さんはそのスクラップブックを扱う恐怖について語っていた。
おそらくそこにはとてつもない情報が詰まっている。
それを解き明かしていくことは、ときに恐ろしいことであると。
そして他人のスクラップブックに手を加えることはさらにおそろしくある。
だから今までずっとそれができなかった。しかし前回の展示ではそれをした。



展示に際して、作家本人の制作過程の心情を聞くことができるのはとても有意義だ。
今回のような、やや抽象的なインスタレーションの展示であったりするとなおさらである。
私たちが普段みることが多い映画やドラマ、漫画、音楽、絵画、洋服やらデザインというものは
作品として最終形であり、それそのものに意味や価値が付随するものであることが多い。

作品という結果に対し、作家がどう考え取り組み制作を行ったかという過程を知らずして、作品の真意を知ることは今回でいえばほぼ不可能である。
あくまで私が知ることができるのは、ほんの上澄みに過ぎないが、ほんの上澄みで世界はぐんと広がるのだ。

上手な絵を描いたり、美しい写真を撮ったり、表現とはそれだけではない。
過去の歴史を選択することであったり、記録をひっぱりだしてくることであったりもする。





駅まで向かう帰り道、虹色に光るスカイツリーが途方もなくそびえっていた。
なんだかそれがとても不気味でいやらしくみえて、少し腹がたった。





2015.2.21



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