Archive for 2月 2015

『おんなのこきらい』こじらせ女子考

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『おんなのこきらい』(2015)/加藤綾佳



そう貴方は
世界一可愛い可愛い、
でもそれじゃ世界
変わらない変われない
もう一つほしいな、
なんて贅沢なの

女の子は
世界一可愛い可愛い
って言われたくて
変わりたい変われない
そう世界を変えればいいの
だからこの話はもう終わり


「かわいいだけじゃダメみたい」/ふぇのたす



キリコ(森川葵)は自称、他称、とってもかわいいおんなのこ。
そんなキリコはどう振る舞えば自分がかわいいか、男にちやほやされるか
すべて計算でわかっている。実際かわいいもんだから男も放っては置かない。
会社の女上司からは煙たがられるが、キリコはそんなこと気にもしない。
「だって私はかわいい。おんなのこはかわいくないと意味がない。」

見た目は最強かわいいけれど、性格最悪のおんなのこ、
キリコに訪れる幸せ?不幸?な物語——。



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かわいい女の子がぶりっこしている姿は、
女性も男性も誰しもが一度はみたことあるだろう。

そして思う。
「ああ、かわいいなあ」「ああ、むかつく」「ああ、うやらましい」
おおまかに言ってしまえば、大抵この三択になるのではないだろうか。


この映画に出てくるキャラクターはわかりやすくわざとらしく上手に描かれている。
性格も、見た目も、とても的確に。


だからこそ意外性がない。
出てくる登場人物は映画にでてくるままの印象でしかない。
そして、そここそがこの映画のポイントである。

あまりにも明確に作り込まれているキャラクター。
キリコ(勘違いメンヘラちゃん)をはじめ、キリコを疎む会社の先輩(こじらせ女子代表)、キリコにひそかに憧れている後輩(メルヘンちゃん)、
キリコと恋愛ごっこをするバーの店長(ヤリチン)、その恋敵の女の子(メンヘラビッチ)、その女の子に恋をする男の子(残念男子)
キリコをちやほやする男たち(ノーマルおよび肉食男子)、その男たちとは違う男の子(草食系アート男子)

それぞれの人物は、わかりやすく演出され、
それぞれが物語の中で意味をなすために存在している。
型にはまったキャラクターはそこからはみ出すことない。
リアル、ではない。


それは、森川葵本人のかわいさが演出を超えてしまっている。
ということでもある。

いくら綾瀬はるかがこじらせ女子を演じても、能年玲奈がオタク女子を演じても
「結局かわいいじゃん」で片付けられてしまうような話と似ている。
本人のかわいさが映画の中のつくられた「かわいい」を超えていると気付いてしまう。

だから私も途中までそう思っていた。


あれ?と感じ始めたのは
好きな男に振られボロボロになったキリコの部屋に幸太が訪れ、
固定のアングルで繰り広げられる長回しのシーン。

引きのアングルで部屋を映しているため、役者の顔はよくみえない。
ましてやキリコは後ろ姿だ。表情は一切みえない。
嗚咽を伴い、なきじゃくるキリコを、言葉数少なく励まし続ける幸太。
今までリアルを感じられなかったこの映画にはじめてリアルを感じた。
二人の距離感や、キリコの言葉にはなっていない言葉、
顔はみえないけど、きっとぐっちゃぐちゃの顔をして泣いている。
キリコというキャラクターと森川葵という役者が溶け合っている瞬間だった。

キリコと女優・森川葵の化学反応。
私たちはきっと、映画の世界が現実と区別がつかなくなったとき、どきっとする。
役者が役者としてみえなくなった瞬間、あれ?と感じる。

これはキリコ?森川葵?

つくりこまれたキャラクターの中で、
私たちが自然体だと感じることができるのは幸太の存在だった。

キリコが本当の自分を知っても突き放すことのない幸太に惹かれていくことは、
キリコを完璧に演じる森川葵が、自然体である幸太(=木口健太)
との触れ合いの中で、型にはまった演出から抜け出していっているようにも感じる。


計算された監督の脚本や演出と、意図されなかった役者の魅力が混ざり合い、
この映画の素晴らしいバランスを保っているのでないだろうか。


そして、この映画に一貫してにじみでている
究極のメッセージは「おんなのこきらい」これに尽きる。



2015.2.24


ぶっちゃけ、テラスハウスも”Goose House”からはじまったでしょ

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光るなら/Goose House

いまや、CM、アニメのタイアップなど、
ひっぱりだことなっている彼らを知っているだろうか。
それぞれシンガーソングライターとして活動している
彼らは週に一回、集まってUstream配信を行う。

その場所、そして彼らが”Goose House"である。

”Goose House”という名前の通りその場所は
歌に希望を込めた若者=Goose(ガチョウ)が集まり、
いつかはきれいな白鳥として飛び立つことを夢みる部屋(=House)である。

彼らは主にカバー曲を演奏し、うたう。
彼らによって再構成された曲は、オリジナルとは違った魅力をはなち
みる人、きく人に届けられる。

既存の曲を再構成して発信すること、それを受け取る私たちは
歌い手である彼らが、我々と同じ聴き手であることに気が付く。

その曲の魅力を十分に理解した演奏やうたは、
同時に彼らの魅力も引き出しながら私たちに届けられるのだ。

彼らが配信したカバーソングの動画はYouTubeに数多くアーカイブされ、
その再生回数は250,000を超えるものも多い。
アニメ「四月は君の嘘の」タイアップとなった
Goose Houseオリジナルソング「光るなら」は5,000,000再生を超える。




インターネットコミュニティの著しい普及は私たちに新たな文化や表現を与える。
YouTubeとニコニコ動画がほぼ同時期にサービスを開始したのは2006年、
ほんの10年も経たない前のことである。
その当時、利用者はある特定の
ーいわゆるオタク的あるいはアダルトなジャンルーコミュニティ利用者だった。

投稿されているものは
いまでは違法アップロードと呼ばれるアニメ動画や
そういったアニメの切り貼りに別の音楽をのせて再構成された
MADと呼ばれる動画などであった。

2007年、VOCALOID<初音ミク>の登場により、
そのオタクコミュニティは、いままで秘めていた才能を一気に開花させる。

初音ミクに歌を歌わせることは<調教>という言葉で表現され、
タグ付けと呼ばれるその動画をあらわすキャッチフレーズがつけられる。
人気の曲には<神調教><プロの犯行>などといったタグがつけられ、
またその曲に対して、イラストが描かれたり、アニメーションがつけられたりした。
曲をつくる制作者はP(プロデューサー)とよばれ、
人気なPが新曲をだすとランキングはすぐに上位にあがる。

現在、当時人気を誇っていたPは、
アーティストに楽曲提供をしたり、演奏家として、活躍している。

また、初音ミクを通じて作られた楽曲に対し、
生の人間が歌い直したり踊りをつけたりする新たな表現方法もはじまる。
<うたってみた><踊ってみた>とタグ付けされるそれらは、
新たな才能の発見の可能性となった。

「いいね!」された一つの曲を通じて才能を提供しあい、
色づき合っていく関係性。これはインターネットが生んだ結びつきである。

初音ミクをはじめ、ヒャダイン、super cell、でんぱ組inc.など、インターネットを媒介とするオタク的コミュニティからの発信、あるいはそれを利用していた受け手が発信者となる例は珍しくない。


しかし、それがいまの社会になじみ始めたのはごくごく最近のことだ。




既存のものを再構成し、発信するという表現が一般に評価されはじめるきっかけに
”Goose House”という存在があったことも少なからず関係しているだろう。

知らず知らず、水面下では刺激しあっている。
そしてまた、模倣から新しい表現が生まれ、新しい才能が発見されていく。



4月から全国ツアーがはじまる”Goose House”。
それぞれもシンガーソングライターとして自らの表現を続け、
Goose Houseとしても新しいアルバムをひっさげて全国をまわる。
カバー曲を歌う彼らはあくまで、歌が大好きな少年や少女と変わりない。
歌い手として、彼らはもうそれぞれが立派に羽ばたく美しい翼を持っている。




2015.2.22


岡本羽衣 個展『ありうる』

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岡本羽衣 個展『ありうる』
トークイベント「記憶と忘却」
ゲスト 飯山由貴




住宅街の中の小さな民家の前に小さく看板が出されている。
入り口には本個展の作家である岡本羽衣が立っていた。


展示スペースに入ると
右側に小さめの額が4つ
左側にパノラマの写真
天井には下半身だけ飛び出た男のオブジェ
床にはその男が残していったであろう靴や時計が置かれている。

小さめの額に入っているのは
海外の古い写真
(ペンダントの中に入れる丸く切り抜かれたものと、額縁のついた四角いもの)
に噛まれたガムが意図的な形で貼付けられている。

左のパノラマ写真はどこかの風景
その上にガラスが一枚あり、そのガラスは黒い液体で
めちゃくちゃに塗りたくられていてその下の写真に関してはよくみえない。

天井にぶらさがった男の下半身は妙にリアルで、少し気味が悪い感じである。

後ろの方でほかのお客さんに
「これはこの男がこういう(展示されているものに対して)行為をしていったあとだ。」
と説明している展示主の声が聞こえた。


その後、飯山由貴さんとのトークショーがはじまった。

今回の展示では、
既存のモノー今回に関しては、19世紀アメリカの肖像写真ーに手を加え、
それを作品として展示をしている。

例えばその肖像写真は、当時の彼または彼女をとりまく人および本人が、
写真をつよく遺したいという思いから、現像されたものである。
当時、いまのように気軽に写真を遺せる時代ではない。
その写真は過去にも現在にも属せない不透明な存在であると作家はいう。
名前もわからない彼らは、今なぜか日本の小さな民家でガムをつけられ飾られている。
なにかしら人の想いがあって撮られたその写真は、いまや物質としてとらえられている。
そこに手を加えることによって、写真に映った彼らに実体を与えたい、
僕の手によって現在にひっぱりだしてやりたかった。と作家はいう。
また、写真の上から写真を覆うように塗りたくられている黒い液体。
それによって私たちは写真をみたいと思っているのに、写真をきちんとみることができない。
そのときすでにその下にある写真は、こういう写真です、という認識とは別のものとして
成り立ってしまっている。黒い液体とともに別のものに姿を変えてしまっている。
本来の姿ではなく、そこになにかあるけれどよくわからない、不透明な存在である。
そしてその写真はもう、見る人全員が同じ感覚でみることはなくなる。
我々が目の前にあるものを認識するためには、周囲と共通の認識が必要である。
例えば、目の前にコップがあったとして、それは誰しもがコップだと知っている。
コップとは液体を入れる器で、その素材はガラスであったり、プラスチックであったりする。
そういう認識が我々には共通で存在していて、それが当たり前だと思っている。
しかし、中にはその認識が不透明なものもある。
例えば今回の肖像写真ー羽衣は「遺影」と説明したーである。
はっきりとした形のものがなにかのきっかけに不透明になる。
不透明なものがなにか別の形になる、それは「ありうる」。

架空の男が行為を加えたという前提の中で、
彼の作品をみるひとは考える。そこには既存のものに手を加えるうしろめたさがあるのかと。
作家はそうではない。と答える。そこにそこまで抵抗はない。

今回使用した肖像写真はネットオークションから手に入れたものだという。
それを選ぶ基準は作家本人のインスピレーションだ。
あ、この人いいな、とかそういった感覚で選んでいるらしい。
その写真は物質としてとらえていて、当時の記録という感覚はそこまでないという。

人の記憶とは経験と知識から構成される。
私たちが遠い昔の歴史を知っているのは義務教育で学んだ知識からだ。
でもその当時の事実なんて現在の世界に生きている人は何一つわからない。
それは伝聞や、誰かの日記や記録、のこされた物質をたよりに、再構成されたものである。
だから私たちは自分が生まれる前のことなど知るはずもない。
なんで知っているのかがわからないと、飯山さん。

飯山由貴さんは他人が作成したスクラップブックを利用した作品を展開する作家のようだ。
飯山さんはそのスクラップブックを扱う恐怖について語っていた。
おそらくそこにはとてつもない情報が詰まっている。
それを解き明かしていくことは、ときに恐ろしいことであると。
そして他人のスクラップブックに手を加えることはさらにおそろしくある。
だから今までずっとそれができなかった。しかし前回の展示ではそれをした。



展示に際して、作家本人の制作過程の心情を聞くことができるのはとても有意義だ。
今回のような、やや抽象的なインスタレーションの展示であったりするとなおさらである。
私たちが普段みることが多い映画やドラマ、漫画、音楽、絵画、洋服やらデザインというものは
作品として最終形であり、それそのものに意味や価値が付随するものであることが多い。

作品という結果に対し、作家がどう考え取り組み制作を行ったかという過程を知らずして、作品の真意を知ることは今回でいえばほぼ不可能である。
あくまで私が知ることができるのは、ほんの上澄みに過ぎないが、ほんの上澄みで世界はぐんと広がるのだ。

上手な絵を描いたり、美しい写真を撮ったり、表現とはそれだけではない。
過去の歴史を選択することであったり、記録をひっぱりだしてくることであったりもする。





駅まで向かう帰り道、虹色に光るスカイツリーが途方もなくそびえっていた。
なんだかそれがとても不気味でいやらしくみえて、少し腹がたった。





2015.2.21



『ワンダフルワールドエンド』

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『ワンダフルワールドエンド』(2015)/松居大悟

純粋なものは純粋なままでいられない。


小さな芸能事務所で細々とモデルの仕事をしているしおり(橋本愛)は17歳。
田舎から上京し、劇団員の彼氏コウスケ(稲葉友)とアパートで同棲をしている。
しおりは生放送のチャットをひっそりと配信するのが日課だ。
もちろん彼氏がいることはチャット視聴者には知られてはならない。
チャットや撮影会など、ファンの前では自称かわいいキャラを演じている。
しかし、そのキャラもそこまで人気があるわけでもなく、
撮影会で着て来たゴスロリ服のウケも悪い。事務所の社長には注意される始末だ。

いわゆる、しおりはうだつの上がらない地下アイドル。
でも彼氏はいるし、チャットを開けば特定のファンもみてくれる。
満足はしていなくても、それなりの生活だった。


あるファン撮影会の日、
しおりと同じゴスロリの格好をした少女が、しおりをずっと見つめていた。

その少女はいつもしおりのチャットにコメントをくれるami☆=亜弓(蒼波純)だった。

ある日、家に帰るとなぜか亜弓がコウスケと一緒にいた。
家出をしてきたという亜弓はそのまま二人の家に居座ることになり——。


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”少女”という存在は純粋の象徴だ。
みんな純粋なものが好きだ。
例えば、ある少女がアイドルだとする。

アイドルには彼氏がいてはいけないし、
彼氏がいれば叩かれる。処女じゃなければがっかりされる。

アイドルとは消費されるべき存在でありながら、
消費されることを嫌われる。誰のものであってもいけない。

しおりもそういう少女を演じていた。
純粋である自分を演じることで、アイドルでない自分の生活とのバランスをとっていた。

本当に純粋なものに出会ったときに、
純粋でなくなってしまったものはどうなってしまうのか。


この映画は感情を言葉では多く語らない。
細かな表情のインサートや、演出がとても秀逸に感情を表現している。
むしろ言葉にしてしまったら、その繊細さは失われてしまうとわかる。
言葉にできない気持ちが伝わってくる。


大森靖子は純粋と狂気。
汚い気持ちもきれいな気持ちもうたってしまう彼女の歌はこの映画そのものだ。
大森靖子こそ、彼女たちー例えば売れない地下アイドルーの代弁者である。
恋もするし、セックスだってする。ネットカフェに泊まるし、うんこだってする。
磨り減りながら、発信し続ける彼女は、アイドルの鏡だ。


しおりが出会った、亜弓という少女は何も知らなかった。
自分が好きな人が正義でその人が好きなものがすべて正義だった。
好きな人の好きなものを好きになることが正しさだった。

しおりはそんな”純粋”に出会った。
”好き”という本当の言葉の意味を改めて理解した。
誰かを想うということはこんなにもまっすぐで壊れやすい。



危うい彼女たちはなぜかとても美しい。





橋本愛がうたう大森靖子の曲も一見(聴)の価値ありである。
東京の片隅、少しリアルなおとぎ話。
『ワンダフルワールドエンド』







2015.2.15