『おんなのこきらい』(2015)/加藤綾佳
そう貴方は
世界一可愛い可愛い、
でもそれじゃ世界
変わらない変われない
もう一つほしいな、
なんて贅沢なの
女の子は
世界一可愛い可愛い
って言われたくて
変わりたい変われない
そう世界を変えればいいの
だからこの話はもう終わり
「かわいいだけじゃダメみたい」/ふぇのたす
キリコ(森川葵)は自称、他称、とってもかわいいおんなのこ。
そんなキリコはどう振る舞えば自分がかわいいか、男にちやほやされるか
すべて計算でわかっている。実際かわいいもんだから男も放っては置かない。
会社の女上司からは煙たがられるが、キリコはそんなこと気にもしない。
「だって私はかわいい。おんなのこはかわいくないと意味がない。」
見た目は最強かわいいけれど、性格最悪のおんなのこ、
キリコに訪れる幸せ?不幸?な物語——。
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かわいい女の子がぶりっこしている姿は、
女性も男性も誰しもが一度はみたことあるだろう。
そして思う。
「ああ、かわいいなあ」「ああ、むかつく」「ああ、うやらましい」
おおまかに言ってしまえば、大抵この三択になるのではないだろうか。
この映画に出てくるキャラクターはわかりやすくわざとらしく上手に描かれている。
性格も、見た目も、とても的確に。
だからこそ意外性がない。
出てくる登場人物は映画にでてくるままの印象でしかない。
そして、そここそがこの映画のポイントである。
あまりにも明確に作り込まれているキャラクター。
キリコ(勘違いメンヘラちゃん)をはじめ、キリコを疎む会社の先輩(こじらせ女子代表)、キリコにひそかに憧れている後輩(メルヘンちゃん)、
キリコと恋愛ごっこをするバーの店長(ヤリチン)、その恋敵の女の子(メンヘラビッチ)、その女の子に恋をする男の子(残念男子)
キリコをちやほやする男たち(ノーマルおよび肉食男子)、その男たちとは違う男の子(草食系アート男子)
それぞれの人物は、わかりやすく演出され、
それぞれが物語の中で意味をなすために存在している。
型にはまったキャラクターはそこからはみ出すことない。
リアル、ではない。
それは、森川葵本人のかわいさが演出を超えてしまっている。
ということでもある。
いくら綾瀬はるかがこじらせ女子を演じても、能年玲奈がオタク女子を演じても
「結局かわいいじゃん」で片付けられてしまうような話と似ている。
本人のかわいさが映画の中のつくられた「かわいい」を超えていると気付いてしまう。
だから私も途中までそう思っていた。
あれ?と感じ始めたのは
好きな男に振られボロボロになったキリコの部屋に幸太が訪れ、
固定のアングルで繰り広げられる長回しのシーン。
引きのアングルで部屋を映しているため、役者の顔はよくみえない。
ましてやキリコは後ろ姿だ。表情は一切みえない。
嗚咽を伴い、なきじゃくるキリコを、言葉数少なく励まし続ける幸太。
今までリアルを感じられなかったこの映画にはじめてリアルを感じた。
二人の距離感や、キリコの言葉にはなっていない言葉、
顔はみえないけど、きっとぐっちゃぐちゃの顔をして泣いている。
キリコというキャラクターと森川葵という役者が溶け合っている瞬間だった。
キリコと女優・森川葵の化学反応。
私たちはきっと、映画の世界が現実と区別がつかなくなったとき、どきっとする。
役者が役者としてみえなくなった瞬間、あれ?と感じる。
これはキリコ?森川葵?
つくりこまれたキャラクターの中で、
私たちが自然体だと感じることができるのは幸太の存在だった。
キリコが本当の自分を知っても突き放すことのない幸太に惹かれていくことは、
キリコを完璧に演じる森川葵が、自然体である幸太(=木口健太)
との触れ合いの中で、型にはまった演出から抜け出していっているようにも感じる。
計算された監督の脚本や演出と、意図されなかった役者の魅力が混ざり合い、
この映画の素晴らしいバランスを保っているのでないだろうか。
そして、この映画に一貫してにじみでている
究極のメッセージは「おんなのこきらい」これに尽きる。
2015.2.24