Archive for 11月 2014

『劇場版テレクラキャノンボール 2013』

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『劇場版テレクラキャノンボール 2013』(2013)/カンパニー松尾


もうずいぶん前だが、ポレポレ東中野の再上映で
『劇場版テレクラキャノンボール』を観た。

特に内容に興味があるとか、劇場版じゃないものを知っている、とかではない。
話題になっているから、というミーハー心だ。観とかないとという焦りがあった。

出てくるAV男優に馴染みもないし、本来AVというものは映画館のようなところで観るものでない。
人と一緒に、ましてや大勢の人と一緒にみるものではない。

その日はレディースデーで私以外にも女性客がたくさんいた。
私は本当に予備知識がなかったので、観てからのお楽しみという感じで映画に臨んだ。


観た後に、私の中に生まれたのは
「AVもエンターテイメントである」
ということだった。それはなんというか、衝撃だった。

今まではなんとなく目を伏せたい、みたくない、と思っていたものが
実はこんなにも明るくハッピーな世界だったの!?
すごく噛み砕いていえばこういうことだ。

「性」のことはなかなか扱いづらいテーマである。
人によっては拒絶する人もいるだろうし、また別の人は大好きだったりする。
前者は女性で後者は男性の場合が多いが、必ずしもそうだとも限らない。

「セックス」という行為はきっと一般的には「恥ずかしい」ことである。
人に見られるなんてもってのほか。でもきっと「好き」な人は多い。
そしてそれは一人ではできない。

劇中で「人にできない事を俺たちはするんだ」みたいな言葉があった。
つまりはそこに喜びや快感を覚える男たちと、
なんとなく社会にはなじめなくなったセックスが好きな女性たちが、
出会い、交わること。これをエンターテイメントにしてしまった。

いや、最悪だ。
普通に考えれば最悪だ。

しかし、それは表現者としてはひとつの表現に間違いない。

私はやはり女なので、きゃははと笑って観るだけはできなかった。
社会の闇を感じざるを得なかったし、嫌気がさすことも当然ながらあった。

「本気でセックスしたい女性を笑うな!」
といまふと、思ったので今更この文章をかいている。

ただ作り手には、そう言う事すら全部含めて
「笑ってしまおう。遊びにしてしまおう。」
という慈悲のようなあきらめのような気持ちもあるかもしれない。

馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、可哀想だと思いながらも、
もうそう言う生き方しかできないのだから。お互いに、と。



いや、ただ、セックスが好きなだけで、女とはめまくりたいだけかもしれない。
いかんせん、性別上、評価が難しいところがある。
笑ってみることができれば吉。



左利き選手権

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Twitterにこんなブログがまわってきた。

はてなブログに投稿しました 突然ですが、私は「左利き」が異常に好きです
 - それは恋とか愛とかの類ではなくて

はっとした。
私もまさにこれだから。

同じ空間にいる人が“左利き”と気付いた瞬間に少しどきっとする。
「あ、あの人“左利き”だ。」そうひそかに思っている。
おそらく“左利き”に関しては一般的な感覚より敏感であると思う。

“左利き”であるだけでなんとなくその人は美化されてしまう。

いいなと思った人が“左利き”だったら「やっぱり!」で+5
なんでもない人が“左利き”でも「あ、あの人左利きだ。」で+2
ちょっと嫌いなやつが“左利き”だったらマイナスポイントを相殺できるくらいのパワーは持っている。

どうしてこんなにも“左利き”に惹かれるのだろうか。
“左利き”が好きな理由を少し考えてみる。

ひとつは、ないものねだりだ。
自分にないものをもっている人への憧れ。
自分にはできないことができることへの羨望。

もうひとつは、大多数とは異なっていること。
“左利き”はいわゆる少数派である。
ふつうとは違うんだぞ、というレア感。

さらにもうひとつ、好きな人が“左利き”だった。
なんてこともあるかもしれない。


“左利き”に憧れていた私はあるとき母にこういった事がある。
「どうして“左利き”に育ててくれなかったの」と。
そしたら意外にもすごい剣幕で怒られてしまって、言わなきゃよかったと後悔したものだ。

“左利き”という少数派は人と違うということで
ある時代には差別的な扱いを受けていたこともある。
右利きに強制され、“左利き”はなかったことにされた。


10人に1人くらいはみかけるようになった“左利き”の存在。
前述のブログの通り“左利き”に「萌え」を感じる人、憧れている人は
案外多かったりするのではないだろうか。

題目にした「左利き選手権」は
そんな“左利き”に対する熱い想いを映像化しようと、
大学のときに思いついたお話である。

〜あらすじ〜

とかいって書かないけれども、
“左利き”っていいよねという話に違いない。

中学生のときに毎週通っていたジャスコのゲームコーナーのお兄さんが
“左利き”だったなんてことはとうの昔のお話である。









髪型は人生を変える。

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人は見た目が9割、とはよく聞く話だ。
これはあながち間違っていない。

「人間、中身だよ。」

なんていったところで、なかなかそうはいかないものだ。
人生で自分のことを中身で評価してくれる人間と何人出会えるだろうか。


先日、美容室に行った。
なかなか行きつけが決まらず、そこも初めての美容室だった。

髪を伸ばそう。
と思っても、ショートヘアーからは長い道のりだ。
途中で飽きてしまう。

だから私はパーマをかけようと思ったのだ。
「その長さでパーマかけたら変になるよ」
なんて友達に忠告を受けてもなお、現状を変えようとしたのだ。


結果は惨敗。
一時の市原隼人である。
つまりはまるでツイストパーマだ。


パーマは何度かかけたことがあった。
髪が傷むとはいうが、はたしてこれは…。
思ってた以上強くかかったパーマに
私はこんなものだろう、そのうちなじむだろう、
と納得しようとしていた。

しかし私の髪は縮れたままだった。
こんな感じにしてください、
と見せたナチュラル女子の画像とはかけ離れたヤンキーヘアー。


それからの私の人生は散々だった。
思考はすべて暗くなり、鏡を見るのも嫌になる。
人に会うのも、人が多い場所に行くのも嫌になる。
美容院を恨み、どうにかして復讐を、と企む。

卑屈の極み。


社会の中で生活をしていれば、
少なからず「自尊心」というものがある。

つまりは私はその自尊心がズタズタになってしまったのだ。
髪型のせいで。

髪型のせいで、そんな。

なんて思うかもしれない。
私もそれが自分でなかったら、
そう思うかもしれない。

いやいや、あなた。
とんでもない。

髪型で人生も変わるのだ。



この話はつまり、髪型でなくともいい。
いわゆる「コンプレックス」。

それは自分自身の自尊心を傷つけるものだ。

自分に自信がなく、
他人の評価を気にして、卑屈になり、
しまいにはどうでもよくなって努力を怠り、他人を批判する。

このスパイラルと縁がある人も無縁の人も世の中にはいるだろう。

コンプレックスを抱えながらどうやって生きていくか。
なんてそんな漠然とした問いの答えを探すつもりはない。



これはただの経験談。
早くサラサラヘアーに戻りたい。
それだけの話である。