Archive for 9月 2014

じぶんのこと

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私は友達も多くないし、自分に自信があるわけでも、
なにかひとつのことをがむしゃらに頑張っているわけでもない。

かといって自分のことを
100%嫌いになることはできず、
中途半端な人間だと思ってる。

頑張っている人やそれに伴う技術がある人をみると
もやもやは止まらなくなるし、
だからってそこからなにかに本気で取り組むわけでもない。

ちょっと手を出して、終わりだ。


テレビで活躍するアスリートを「すごい」と賞賛する。
彼らはその「すごい」のための凄まじい努力と時間を犠牲にしてきた。
それしかない人生だ。

スケートならスケート。
テニスならテニス。

私は、中途半端もいいな、と思ったことがある。
中途半端のいいところはよくいえば、柔軟なところだ。

私の毎日はスケートを中心にまわらないし、
パパラッチにも追いかけられない。

中途半端な人間の中途半端な日常だ。
好きな時に好きなところに行けて、
誰を好きになってもどんな音楽を聴いていても
Twitterでなにをつぶやいたって炎上しない。


そういう人生も悪くないなー
と、これはもう半分は諦めで、思ったことがある。

今の私はどうだ?


今の自分を好きなれるかといえば、
答えはノーだ。
全然好きじゃない。

でもたまにおまえのこういうところいいじゃん
と思える時もある。


もっと自分を好きな自分になれ。
そういう自分になれる努力をしろ、と。

言葉でも説明できるのに。

私は親孝行の仕方もわからないし。


自分を省みて思い浮かぶのはおばあちゃんの顔で、
そして「ごめんね」と思う。

こんな私でごめん。


いつまでたっても消えない後悔をどう形にするか。
私はどうにかしてこれを別の形に変えて人に伝えたいのだ。

きっと、そうしない限り自分を許せないのだと思う。
そして逆にそれが自分を苦しめることになるかもしれない。
全然うまくいかないかもしれない。

それでも、死ぬまでに。
自己満足したいのだ。




思考

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ふと死んだ友人の言葉を思い出した。


「100人いたらその中のたった1人がいいっていってくれるくらいでいい」


という言葉だ。


そのときはおそらく、その言葉にさして興味もなく、
そしておそらくはわたしはそれじゃ嫌だと思ったと思う。


わたしはできれば100人いたらすくなくとも半分くらいはいいといってほしい。
そうじゃない作品は人前に晒したくないとそんなこと思っていたかもしれない。


もはやそのこと自体はどうでもいい。
だって当たり前のことだから。


いまのわたしがあのときのあの子に追いついたのかなって思ったのだ。
私の思考があのときのあの子に重なったのかなって思ったのだ。


別に優劣の話ではない。
ただ、こんな気持ちだったのかなって思っただけだ。


自分自身の言葉や作品を人前に晒すことに対して、
そういうのは自己防衛であるけど、その自己防衛は晒す勇気を持った証拠でもある。


そして自分の作品をきちんと省みている証拠でもある。


できたらそれでいい、ということではない、ということだ。


自分の作品は批判されて成長する。
そうでなければ自分のための作品になってしまう。


全部そういうことをひっくるめて、思い出したのだ。






はきだめ

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作品を作るとは一体何か。
いったいなにか。

いつの間にか私はつくりたいものがなくなっていることに気づく。
自分の中から外に吐き出したいものが思いつかないことに気づく。

技術を求めらてれそれにこたえることに慣れる。
作品は完成して、納得してもらえる。

これでよかったのか?

ふと我に返る。
わたしなにがしたかったんだっけと。

私はそれでいい。
それでいいと思っていた。
本当にそれでいいと思っていた。いつのまにか。

なにものねだりの度が過ぎて、他人の賞賛や批判ばかりをする。
それにも慣れて、当たり前になる。

自分が近づきたいものに近づくためには
丁寧に時間をかけて近づいていかねばならない。
技術をみにつけるためにはそれに比例して時間が必要なのに。
知っているのにわたしは努力を怠っている。もうずうっと。
簡単にいいものが出来る方法ばかり探している。
そうしたらその程度のものしかできないことも知っている。

「MVを撮って」と言われるのはわたしは嬉しかった。
これで自分を表現できると、少なからずそのときは思っていたはずだ。
いまのわたしは空っぽで、本当に技術を提供しているだけだ。
わたしはそれでいいと思った。ついこの前まで。

わたしが撮影したものを、編集したものを、作品といってくれるひと。
わたしの、作品、増田美月の作品、といってくれる人。

ゆっくりと考える。

漫画が描きたいだのバンドがやりたいだの映画が撮りたいだの、
じゃあいざ人前にそれを出せるのか人前でなにかできるのか
自分自身を表現できるのか、
いざ
そう言われたとき、
わたしは「いいや」って思った。
それは「無理」ということだ。

それは技術的にというのももちろんだが、度胸がなかった。勇気もなかった。

ゆっくりと考える。

自分がやりたかったこと。

表現、というのは「恥ずかしい」ことだ。
それは自分を晒すことである。

わたしはそれを避けるために人を通して作品を撮って、自身の表現から逃げた。
直接的にわたしは批判されない。知られることもないかもしれない。
つまりは自己満足だ。

ただのビビリ野郎だったのだ、わたしは。
大嫌いな口だけ野郎だ。

それでもなんとか自分が嫌いな人間にならないようにギリギリ首の皮一枚つないでいた。
中途半端な気持ちで。

作品に自信がないわけではない。

でもやはり素人に毛が生えた技術であるとしか思えない。自分の作品は。
ごまかしてごまかしてなんとか人前に晒せる。
これはすごく失礼な話だが、わたしはそう思っている。
自分に自信がない。

技術を道具として求められる一方で、わたしの内面を作品として吐き出してみないか
と言われたことがいまこの悶々とした考えに至る部分である。

それは普通に考えればチャンスだ。
自分をアーティストとして、クリエイターとして表現できるチャンスだ。

でもわたしにとってそれはとても恥ずかしくて、みっともないことのような
そうなってしまうような気がしてならない。
それは今のわたしに「生み出してやる」という気持ちがないからだ。

「近づく」
これがわたしの作品の作り方になっていた。
いかに、近づくか。真似するか。
いつのまにか。
「生み出す」
ことを忘れる。

作品づくりは模倣からはじまる。
それは嘘ではないと思う。
第一人者はいたとしても模倣の連続だ。
それはそれでいい。

わたしに至っては模倣の模倣だ。
とてもつまらない。

わたしは具体的な表現をしたくない。
という結論に至る。

作品はエンターテイメントでよい。

だからきっと悶々としている。

作品を通してその人を感じることができるのは素晴らしいことだし、
作品がすきということはその作家がすきであるということだ。

ないものねだりだろうか。

エンターテイメントさえ生み出せないわたしが、


ゆっくり考える


人生のルーツ