ふと死んだ友人の言葉を思い出した。
「100人いたらその中のたった1人がいいっていってくれるくらいでいい」
という言葉だ。
そのときはおそらく、その言葉にさして興味もなく、
そしておそらくはわたしはそれじゃ嫌だと思ったと思う。
わたしはできれば100人いたらすくなくとも半分くらいはいいといってほしい。
そうじゃない作品は人前に晒したくないとそんなこと思っていたかもしれない。
もはやそのこと自体はどうでもいい。
だって当たり前のことだから。
いまのわたしがあのときのあの子に追いついたのかなって思ったのだ。
私の思考があのときのあの子に重なったのかなって思ったのだ。
別に優劣の話ではない。
ただ、こんな気持ちだったのかなって思っただけだ。
自分自身の言葉や作品を人前に晒すことに対して、
そういうのは自己防衛であるけど、その自己防衛は晒す勇気を持った証拠でもある。
そして自分の作品をきちんと省みている証拠でもある。
できたらそれでいい、ということではない、ということだ。
自分の作品は批判されて成長する。
そうでなければ自分のための作品になってしまう。
全部そういうことをひっくるめて、思い出したのだ。
思考
はきだめ
作品を作るとは一体何か。
いったいなにか。
いつの間にか私はつくりたいものがなくなっていることに気づく。
自分の中から外に吐き出したいものが思いつかないことに気づく。
技術を求めらてれそれにこたえることに慣れる。
作品は完成して、納得してもらえる。
これでよかったのか?
ふと我に返る。
わたしなにがしたかったんだっけと。
私はそれでいい。
それでいいと思っていた。
本当にそれでいいと思っていた。いつのまにか。
なにものねだりの度が過ぎて、他人の賞賛や批判ばかりをする。
それにも慣れて、当たり前になる。
自分が近づきたいものに近づくためには
丁寧に時間をかけて近づいていかねばならない。
技術をみにつけるためにはそれに比例して時間が必要なのに。
知っているのにわたしは努力を怠っている。もうずうっと。
簡単にいいものが出来る方法ばかり探している。
そうしたらその程度のものしかできないことも知っている。
「MVを撮って」と言われるのはわたしは嬉しかった。
これで自分を表現できると、少なからずそのときは思っていたはずだ。
いまのわたしは空っぽで、本当に技術を提供しているだけだ。
わたしはそれでいいと思った。ついこの前まで。
わたしが撮影したものを、編集したものを、作品といってくれるひと。
わたしの、作品、増田美月の作品、といってくれる人。
ゆっくりと考える。
漫画が描きたいだのバンドがやりたいだの映画が撮りたいだの、
じゃあいざ人前にそれを出せるのか人前でなにかできるのか
自分自身を表現できるのか、
いざ
そう言われたとき、
わたしは「いいや」って思った。
それは「無理」ということだ。
それは技術的にというのももちろんだが、度胸がなかった。勇気もなかった。
ゆっくりと考える。
自分がやりたかったこと。
表現、というのは「恥ずかしい」ことだ。
それは自分を晒すことである。
わたしはそれを避けるために人を通して作品を撮って、自身の表現から逃げた。
直接的にわたしは批判されない。知られることもないかもしれない。
つまりは自己満足だ。
ただのビビリ野郎だったのだ、わたしは。
大嫌いな口だけ野郎だ。
それでもなんとか自分が嫌いな人間にならないようにギリギリ首の皮一枚つないでいた。
中途半端な気持ちで。
作品に自信がないわけではない。
でもやはり素人に毛が生えた技術であるとしか思えない。自分の作品は。
ごまかしてごまかしてなんとか人前に晒せる。
これはすごく失礼な話だが、わたしはそう思っている。
自分に自信がない。
技術を道具として求められる一方で、わたしの内面を作品として吐き出してみないか
と言われたことがいまこの悶々とした考えに至る部分である。
それは普通に考えればチャンスだ。
自分をアーティストとして、クリエイターとして表現できるチャンスだ。
でもわたしにとってそれはとても恥ずかしくて、みっともないことのような
そうなってしまうような気がしてならない。
それは今のわたしに「生み出してやる」という気持ちがないからだ。
「近づく」
これがわたしの作品の作り方になっていた。
いかに、近づくか。真似するか。
いつのまにか。
「生み出す」
ことを忘れる。
作品づくりは模倣からはじまる。
それは嘘ではないと思う。
第一人者はいたとしても模倣の連続だ。
それはそれでいい。
わたしに至っては模倣の模倣だ。
とてもつまらない。
わたしは具体的な表現をしたくない。
という結論に至る。
作品はエンターテイメントでよい。
だからきっと悶々としている。
作品を通してその人を感じることができるのは素晴らしいことだし、
作品がすきということはその作家がすきであるということだ。
ないものねだりだろうか。
エンターテイメントさえ生み出せないわたしが、
ゆっくり考える
人生のルーツ
二日酔いな休日
ちょうど昼の12時頃に目覚めて1時間くらいは平気だった。
頭と体が起きてくるにしたがって、体が気持ち悪さに気付き、
こりゃ電車に乗れねえなと思って鶴川のガストに入る。
胃に酒しか入ってない状態がまずいと思い何か入れようと思ってきのこ雑炊を注文。
なぜか舌がしびれていてきのこってこんな味だったっけか…、
今ならきのこ嫌いの人の気持ちがよくわかる気がする…、
いや普段は「きのこ嫌いとか意味わかんないっすよ」とかいってるけど
この土っぽさと食感か…?とか思いながら気持ち悪さから逃れるために流し込む。
しかし状態よくならず。
昼時の一番混む時間帯のガストでひとりうんうんと唸ってる私…。
もはやこの気持ち悪さがなんとかなれば周りの人にどう思われようが構わない。
一人でガストに入ることとかちょっと抵抗あったけどもはや、というか結構一人でご飯食べてる人いるし。
となりの席におじいさんが座り、おじさんが座り、高校生が座り、お客さんはどんどん入れ替わっていく。
ドリンクバー頼んだけど水飲んでるよ、もったいねえ、いやでも、
あー気持ち悪い…と一人もんもんとしながら2時間くらいガストにいた。
ようやくちょっとはマシになり、電車に乗ろう!とガストを出る。
急行は座れないだろうし、ゆっくり各駅でいこう。
携帯の電池が切れていたので本屋で一冊文庫を買った。
蝉の声を聞きながら夏だなあ、とありきたりな事を思い電車を待つ。
新宿行きの各駅停車がゆっくりとホームに入ってくる。
二日酔いと電車ほど相性の悪いものはないと私は思う。
ここからがたたかいだ。
角の席が空いていたのでラッキーという感じで座る。
いよいよ走り出した電車の揺れが気持ち悪さをあおる。
買った本を読みながら気を紛らすも一向に気持ち悪さは消えない。
音楽を聞いてもむしろうるさくて耳障りな感じである。
胃をつぶすように突っ伏すと比較的楽なのでその格好でなんとか乗り切ろうと思うも、
多摩川を越え、ようやく半分くらいまで来たかという成城学園前で耐えられなくなり電車を降りる。
すぐよくなるだろうとホームの待合室で休むものの
むしろ余計に気持ち悪くなってしまい、いよいよ吐き気も…
ホームから改札回まであがっていつでも大丈夫なようにトイレの前のベンチにスタンバイ。
やはり突っ伏すといくらか楽になるのでベンチの上に足も乗っけて突っ伏した状態で休んでいた。
休めども休めども一向に回復しない…。
昼に買ってぬるくなったウーロン茶を飲めども飲めども効果はない…。
手足のすらーっと長い男女が多くて、成城学園前の品を感じた。
あの人も二日酔いかなぁ、私と同じように突っ伏してるし。
いまの私、たぶんそれだな…。
自分がこうなってわかることだけど、そういう人たちにはそれなりの理由があるんだなと思って
少しだけやさしい人になれた気がする…。どうでもいいけど。
駅員さんにいったら救護室とかのベッドで寝させてくれるだろうか。
横になれたら少し楽になれる気がする…。いっそここで横になってしまおうか…。
ここまでひどい二日酔いはなかなかない…。
しかし急行には乗らない。各駅でいこう。
日は暮れかけてきていて、空は曇っていたけどきれいだった。
ふむふむふむ。
最近映画観てないなあ。
人と会うと『あまちゃん』の話ばかりで申し訳ないなあ。
自覚はあるけど少しわざとな部分もあるんだなあ。
でも別に『あまちゃん』だけしか観てないわけじゃないんだけど、
そういうつもりの方が楽なんだなあ。
くだらないと思うものほど、あとで気になるのは、なんでかなあ。
かっこつけて完璧にしようと思ってできなくなるより
下手くそでかっこわるくてぼろぼろでもやり遂げた方がよっぽどかっこいいよなあ。
そういうことかもなあ。
mimico.
ヒバリオペラ
6月6日
6月6日は今上映している映画の名前ではない。
世界のこと。
学校でたくさん勉強してきたのに
その当時は同じ世界だとは思ってなくて
ひたすらに嫌な気持ちになった。
今はどうかといわれたら
今も変わらないけど
小学生や中学生のときよりは
できることは増えたのではないかと思う。




