「燦々」/ カネコアヤノ単独演奏会

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歌っていないと死ぬのかと思った。
小さくポツンと、遠いステージで燃えている。
影が伸びる。
太陽が昇って沈むように光がまわる。
車窓の景色が流れていく。

たたかいつづけている。彼女。
たたかいつづけていたいと。

カネコアヤノ単独演奏会「燦々」


2019.9.5

「群れたち」/ 劇団排気口

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「好きになるって普通じゃない」


笑いの起こるコメディ節から、ハッとさせられる哲学的な台詞まで。
セックスに始まり、おしっことかうんことかって言葉が飛び交う。
それは普段使うことを避けたり、恥ずかしがったりしてしまうのだけど、
よく考えたらものすごく身近で、誰でも知っている言葉、行為だなと改まる。
私たちが存在していることと、セックスはだいたいおんなじことだ。
好き ということも。

世界にありふれていることに疑問を持つことをよく考えさせられる舞台だった。
ちょっとした言葉の使い方とか、その言葉の持つ意味とか、
口には出さないけど思っていることとか。
好きなもののことをなんで好きなんだろうとか。誰かにあったら聞いてみようとか。

好きだから、のあとに続く言葉は幾らでもあって、
むしろ言葉で言えないことの方がたくさんあるような気がして。

後から振り返ったら間違ってるような、恋だとか愛だとか、そんなもんを眺めながら、
桜が綺麗だねとか、4月も終わるねとか、そんなことを言いながら、
結婚したよとか、子供が産まれたよ、なんていう報告をときおり聞いて、
私もどこかの群れの中、あーだこーだと暮らしていく。


たぶん。




2019.4.20
高田馬場 プロト・シアター

ラストアイドル「好きで好きでしょうがない」

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「ラストアイドル」(というエンターテイメント)を知っているだろうか。
アイドルになりたい少女たちが、まさに、たたかう日本のテレビ番組である。


アイドルが大好きでアイドルになりたい
地方アイドルをやっていたが解散してしまい諦めきれない
社会人になるかならないかでアイドルを選択した
年齢も境遇もバラバラの少女たちがひとつの目的に向かい
同じステージで共鳴し、踊り、歌い、喜び泣いて、青春を燃やしては輝いている。

当初、7名だけしかアイドルとしてのデビューはできないというコンセプトであったが
最終的には敗退した子たちも別ユニットとして活動することになった。

「好きで好きでしょうがない」は、第一期のラストアイドルメンバーが集ったMVだ。
アイドルになりたくて、アイドルになることができた。
その少女たちがフイルムに焼き付けられ、いままさに命を燃やしている。
10代という時間と青春を犠牲にしてでもそれでもアイドルになりたかった少女たち。

夢は叶い、いま、踊っている。歌っている。
憧れ、羨望、いろいろな感情を糧にして、
見えないところで、表舞台を目指して、レッスンに励む少女たちを
見逃すことができなかった。


この映像を見終わった後、スタッフ欄をみて
全くもって納得してしまった。

山戸結希
彼女もまた。





Fighter

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孤独な人が好きだ。


ひとりでたたかっていて
誰のものにもなっていなくて
いつも必死で目の前のことに全力で
誰かに愛されたくて

何かに飢えていて
諦められなくて
全力で命を燃やしている。


空白に埋まるもの。
それはあなたが決めていい。



『カンビュセスの籤』自分勝手考察

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藤子を知っている人ならば言わずもがなの名作
『カンビュセスの籤』。

私が藤子短編集をはじめて読んだのはおそらく中学生の頃。(2002年頃)
『ドラえもん』をはじめ藤子作品は小さい頃から親しんでいたが
この短編集にであったときは今まで知っていた藤子作品とは違う
なにやら新しいものを見つけた気持ちで嬉しく、ワクワクしていた。

作品に描かれている時代よりもはるかに未来を生きているのに
すごくしっくりくる。

とはいえ中学生の私にはよくわからない作品も多かった。
その一つに『カンビュセスの籤』というものがある。


作品の概要は、至る所で丁寧に紹介されているので省略する。

この作品、はじめて読んだときは私は??という感じだった。
おそらくカニバリズムという概念もなかったし、
テーマに対して深く掘り下げるような情報を持っていなかったのだと思う。

歳を重ねて、読み返した時にラストシーンを読んで衝撃が走った記憶がある。

この作品は、歴史的な出来事を題材に、
なぜ人は争うのか、なぜ生きたいのか、生きるために必要なこと(衣食住・環境)、生きることへの執着、
テーマはひとつではないが
史実とSFを混ぜて、生き延びたいというエゴイズムを描いている。

そしてラストシーン。
裸になったエステルが「ミートキューブの作り方はね・・・」
と笑顔で男に説明をするシーンで終わる。

そう、そこでこのお話は終わる。

なるほど、と私はいろいろと納得した。
エステルが「ごめんなさい、ひげは好みじゃなかったの」とか
男の胸を借りておいおいと泣いたり、嫌いな人に食べられなくてよかったわ、とか言ったり。

このお話が男と女であった意味も
あそこで物語が終わる意味も
私の考えはひとつの結末に集約してしまった。

「ミートキューブの作り方はね・・・」は
「人(赤ちゃん)の作り方はね・・・」と
置き換えられるのではないか・・・。

その思ってこのラストシーンをみると本当に鳥肌が立つというか
ハッとさせられてしまったのだった。

例えばこのお話は、
男が泣きながらエステルのミートキューブを食べているシーンで終わってもよかった。

そもそもそんな極限状態の中で子供なんか作ってられるか
生まれたところで育てられんわ、みたいなことを私も冷静に考えたりしたが、
神話的な思考で読むと、二人はアダムとイブで、人類のはじまりでもある。



最後のページをどう読み解くか、それは読み手次第であり、
ここに書いてあることは、私の個人的な考察である。

私にとって藤子作品は毎回読むたびに発見があって、
それは自分が歳をとったり、環境の変化によってもかわっていく。
特に短編集は歳をとるにつれて深く突き刺さることも。
誰かと共感したいなと思ってもなかなかうまくいかなかったりもする。
それでも大好きな作品のことは誰かと語りあいたかったりする。


私も大人になったな。。
と思わざるをえない、藤子短編集の考察。



2017.12.3

『米とりんご』

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 アップデイトダンスNo.39「米とりんご」
振付 勅使川原三郎  ダンス 鰐川枝里




鰐川枝里

というダンサーがいる。

彼女とはたまたま同級生だった。





暗闇の中、風がごうごうと吹く音が聞こえる。
目を瞑った時と同じ、本当の暗闇だ。
不安を煽るように、ただただごうごうと、音は鳴り続ける。

ステージにうっすらと光が差す。
仄暗い、本当にわずかな光だ。

その灯に照らされて、ひそやかにたたかいがはじまる。



私はこの公演を、半年前に一度観ていた。
その時の衝撃は、世界的な発見といってもいいような感覚だと思う。
あの、小さく細い体のどこに凄まじいエネルギーが詰まっているのかと
感嘆するばかりで、それと同時に、脆く、壊れそうなことに涙がでそうになる。
そしてそれはとても美しい、のだと観客は皆思うだろう。


聞き覚えのある童謡が無機質に流れ始める。
これは今までに見たことがない光景で、
おそらく異様だと思う。

童謡は一曲から、二曲、三曲と次々と重なり合って、
不況和音のようにミックスされる。
その全てを受けいれながら、彼女は踊り続ける。
何百本もの操り糸が見える。
私はそんな気がしていた。

まさに混沌である。

音楽が止まらなければ彼女は永遠に踊り続けるのじゃないのかと、
不安になりつつも、なんだかずっと観ていたいような
複雑な気持ちになる。

これが演出といわれればそうでしかないとは思う。
彼女そのものだと言われればそれもまたそう思う。


とても最小限の自己表現を全身全霊ですることが、
一番彼女を輝かせて、すべてを放出していく。


小さくてとても強い炎が中心にみえて、
絶対に消えないように燃えている。

美しいものは脆いのだと、
だからこそ美しいのだと、
なんだか昔から知っている気がする。



そして人の手というものは

光をあてるとほのかに光るということを
私はKARASの公演を何度かみて知った。

手のひらを太陽にかざしてみれば
真っ赤にながれる僕の血潮

という曲を思い出して、
あの光は体に血がめぐっているということなのだと、
生きているということなのだと改めて感じる。



若さなのか才能なのか、
おそらく言われたことがとても器用にできてしまうのか、
彼女のダンスには変な癖がないと、私は思う。
もちろん良い意味でそれはらしさだと思う。
素人の私がいうのも変な話であるが、
演技がうまいとか、たぶんそういう類の話に近い。

つまり、とても見やすくて、
音楽に合っていると感じる。
クラシカルなコンテンポラリーと
調和したポップさが心地よいと感じる。

私が彼女の同級生だから公演を観に行く。
とか、もはやそういうことではなくなっていることに私はそろそろ気が付く。

半年前、はじめてソロ公演を観た時に、
私はすでにもう一度観たいと感じてしまっていたのだ。
もう、彼女の魅力はまったくもってそれだけで存在していた。
知り合いだからとか、友達だからとか、そういうことでなく、
鰐川枝里という一人のダンサーとして、魅力を感じているのだと
気が付いた。

鰐川枝里
という素晴らしいダンサーがいて、
私は運がいいことにたまたま同級生だったのだ。



星が美しく輝くのは、
命を削りながら燃えているのだと、
小さい頃に習った。

漠然と日々の生活を送っていると、
そんなことも忘れてしまって
夜空の星を見上げても何も思わなくなったりする。

いざ、目の前でそれを突きつけられたら
立ちすくむしかできなくなって、
ただ受け入れるだけじゃもったいないと感じる。



ステージの上で彼女が大きく呼吸をする。

吸い付くように肋が浮かび上がって、
遠いところを見つめる表情を見える。

小さい体をめいっぱいに広げて、
大きく手を伸ばす。


その手は助けを求めているようにも見えれば、
水の中、もがき苦しんでいるようにも見えれば、
とても気持ち良く浮遊しているようにも見える。



たたかいが終わった後の彼女は、
いつも笑っている。
近くに立つと本当に小さくて細いことがわかる。
私はいつもなんと声をかけてよいのやら困る。
ありきたりな言葉で表現してよいほど簡単なものじゃないような気がして、
悶々としている。
驚くほど彼女が謙虚なので、どつきたくなるが
どつくど折れてしまいそうなのでどつかない。




炎が小さく強く燃え続けている間、
私はひそやかに観察しようと思っている。




2016.9.17

太陽

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入江監督の映画は、
なんだか不思議な映画だ。

どちらかというと感情移入はしない。
なんというか、ただひたすらに
「目撃」を繰り返してしまう。

物語がはじまっても
映像の向こう側の世界は日常で
みている私はなんだか取り残されているような気持ちで
客観的に向こう側をみている。
みさせられている。


引き画、そして長回し。
それは意図されたカット割りが
もたらす効果とは別のものを生み出す。

妙なリアリティが、
私を「目撃」してしまった気分にさせる。


詳細は決して見えてこないのに
確実に何が起こっているのかはわかる。

表情や個人にはフォーカスしないが、
その場所のかなしみやくるしみや叫びが私たちには伝わる。

ニュース番組みたいだな。

遠くで起きている地震や
同じ街の中で起きた事件を
私は知らない。

それでもそれは確かに起きていて、
それを見て私たちはかなしいな、
とか、つらいな、とか思っている。


ニュースでは知れなかった部分まで、この映画は教えてくれる。
誰にも知られず起こってしまった悲劇や結末まで。

やっぱりかなしいな。
私はそう思ってみていた。








『リップヴァンウィンクルの花嫁』

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「リップヴァンウィンクルの花嫁」(2016)/岩井俊二



失礼ながら私は岩井俊二監督の作品があまり好きではない。

それはなんというか、本質的には意味は違うのかもしれないけれど、
私が好きになりたくないというようなそういう意味である。

作品として悪いと思っているわけではない。
ただ、辛いのだ。



『リップヴァンウィンクルの花嫁』
この映画は直感的に観たいと思った。
そして観たのである。



単刀直入にいうと、
私はこの映画に魅入ってしまった。
辛かっただろうか。確かに辛かったかもしれない。
結局おしゃれな雰囲気ものの映画が好きなのね、
と言われたとしても、それ以外の言葉でなんとなくカテゴライズされたとしても、
私にとってこの映画はよかったし、その気持ちはむしろ大事にすべきである。


きっと私と同じように感じた人はたくさんいるだろうし、
逆にその反対もいるだろうと思う。でもそんなことはもはやどうでもよい。


内容に関して深く掘り下げるとか、粗探しをするとか、
まだそこまで気持ちは到達していない。
つまりは、どこがよかったかと言われてもはっきりとは答えられない。


いま少しずつ反芻しながら、思い返している。

180分という映画にしては長すぎる尺をどう物語にするのかと考えていたことすらも、
少し忘れて没頭してしまっていた。
確かに、少し長いと感じた部分もあったが、
それは監督の被写体への愛であると思えば大した長さではない。



パンフレットのインタビューに書いてあったように、
「映画は元々虚構である。この映画はさらにその中に虚構を積み重ねている。」

黒木華さんのインタビューでは
七海と自分の境界がなくなって混乱した、というようなことが書いてあって

Coccoのインタビューには
監督がかいた台詞は私自身の言葉そのものでしかないから
演じることになんの抵抗もない、というようことが書いてある。


役者と登場人物の境界をなくしてしまう監督のあてがきの脚本。


私はたしかに何が本当なのかわからなくなって、
不確かな気持ちのまま、登場人物たちを観察している。

新しく起きるそのすべてから目が離せないし、動揺する。

内容は非日常的で共感できるわけではないけども、
どこかで本当に起きているような気もする。

そしてそれは残酷で、とても美しい。


本気でやっているのか遊びでやっているのか、
冗談めいた演出には思わず笑ってしまうし、おそらく本気で遊んでいるのだろうと思う。


どこがよかったのか、それを言葉にするのも少し嫌な気持ちもあるが、
やはり、真白の母の元を訪れたシーンは突き動かされるものがあった。

得体のしれなかった間宮という男がはじめて感情的になる。
ひとつのキッカケから3人のなにかがボロッと壊れて、泣いて、笑う。
気が付いたら私も泣いて、笑っている。
すべての人が真白を愛している。



SNSで出会って別れた男のことなんて、観終わった後にはすっかり忘れていて、
きっと七海もそうだったのではないかとラストシーンの、表情を思い出す。


結局一体なにが本当だったのか、
わからない。


でもよくよく考えてみたら
そんなことだらけだし、それでいいだと思う。


なんとなくの正解を探すよりは、
少し流されながらいつのまにか手に入れている答えがあってもいいのかもしれない。



2016.3.31



『バケモノの子』(2015)

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『バケモノの子』(2015)/細田守


細田守監督作品がなぜか好きになれなかった。
やりたいことが先走り、細部の感情をすっとばしているように思えていた。
あくまでファンタジーだから細かいリアリティーは必要ない。

たしかにそういわれればそうだ。
物語で描かれない部分は補完して考える事も出来る。
もちろんすべてを丁寧に描く必要もない。
ただなんとなく雑な気がしていたのだ。

『バケモノの子』をきっかけにそんな考えを見直すことになりそうだ。

よく見かけるようなことを言ってしまうが、
物語は予定調和的な展開を持っている。

人間の男の子が日常から非日常世界へ迷い込み、成長していくお話だ。

ただ思っている以上にそれだけではない。
「ごちゃついている」と言われるように要素が多い。
しかしそれがこのお話の大事な部分であると思う。

物語のきっかけは「人の心の闇」である。
孤独、憎悪、哀しみ
蓮(=九太)は幼いながらにその闇に直面してしまう。
自分以外、自分すらも受け入れられず一人で生きていこうとするが、
異世界と邂逅することにより道を拓く。

熊轍との出会いは九太のカラダとこころの成長させた。
正直、九太は性格のよい主人公ではない。
かなりわがままで自分勝手である。
それは強く成長しても変わらなかった。

渋天街で8年の歳月が過ぎ、
たくさんの仲間に恵まれ立派に成長した九太であったが、
目標としていた強い自分になれたものの、
精神的には満たされていなかった。
両親への想いや人間として自己は忘れられなかった。

それが、ふとしたことで人間界へ戻り一気に高まっていく。

人間としての自分を取り戻したい、再生をのぞむ九太に対して、
人間としての自分を恨み人間自体が憎悪に変わっていくのが一郎彦である。


二人の闇は全く違うようにみえて同じものだ。
きっと、それは細田監督自身が抱えた闇でもある。
「孤独」というものはどんなに才能があっても、技術をもっても、
誰にでもおとずれる可能性をもった闇だ。
信じることができないとき、特にその闇はやってくる。

目標としていた強さは、いつのまにか、憎しみを増幅する力となってしまう。
鯨を追うことに盲目になるあまり、周囲を顧みず、人を傷つけ、そして自分自身が鯨という闇に取り込まれる。


一郎彦は鯨に取り込まれたもう一人のキュウタの象徴だ。


自分の存在について、何者かというアイデンティティを確立できないでいるのは
私たちに対する問いであり、きっと監督自身が抱える問題そのものでもある。
失ってしまった母、記憶の中にしかいなかった父がいる現実、
バケモノとして育てられた人間、


物語の最後、光が見えるのは、
監督自身がそれを求めているからだろうか。



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『バケモノの子』を観た日、たまたまガラスの話をした。

「昔みたアニメでさ、」

当時「おジャ魔女どれみ」のある回で「ガラスが実は動いている」という話があった。
私の中でその回が印象的で忘れられずにいた。
そして今日、たまたまその回の演出が細田守と知る。

知らない間に、同じ人から全く別の影響を受けている。
そのときとは、作った本人も私自身も変わっているのだろうに。







天使の墓

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「また、お墓が増えましたね。」

白い服をきた少年が言った。

「このままだと、増え続ける一方ですね。」

少年は、隣にいる白い髭を生やした老年の男性に向かってそう言った。

「なぜこんなことをするのでしょうか?」

男性は特に表情を変えずに答えた。

「石はとても、記憶力がいい。」

「なるほど。」


少年の背中には真っ白な翼が生えていた。





『シンプル・シモン』

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『シンプル・シモン』(2010)/アンドレアス・エーマン

北欧映画というものはあまりみたことがない。
しいていうなら「チェブラーシカ」と思ったが、あれはロシアだ。
となると、「ムーミン」か。


とにかくおしゃれだ。
アートワークにしろ、美術にしろ、衣装にしろ、なんにしろ。
なんだんだ北欧って。

そしてもう一言でいうと、好きだ。
私、この映画好きだ。


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「思い込み」というのは、やっかいだ。
それは人が生きていく上で指針にもなれば、障害にもなる。
人の心が壊れるのはどこからが病気でどこまでは病気じゃないなんて、
いつから決まって、病名がつけられたのか知らないけれど
ある程度、決めつけられると安心するのが人のようだと、
なんとなくはわかる。

以前、僕はアスペルガー症候群に憧れています。という人がいた。
彼らはに才能溢れているし、自分にはないものを持っている、と。

激しいこだわりや、記憶力、特別な才能、
自分が持っていないものや、自分にできないことをできる人に
「頭がおかしい」とか言ったりする。
「気が狂ってる」とか。

人にあわせられる、というのがこの世で一番重宝される才能だ。


「慣れる」というのは思い込みに似ている。
それは例えば、愛だとか、諦めということとも似ているかもしれない。


厄介で愛おしい『シンプル・シモン』
宇宙や数学をもっと好きになりたい。









『チャッピー』

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『チャッピー』(2015)/ニール・ブロムカンプ


世界一治安の悪い都市、ヨハネスブルグ。
警察はそこに「ロボット警官(=スカウト)」を導入する。
スカウトを導入したことにより、都市の犯罪は減少していく。

スカウトを開発、製造したテトラヴァール社では、
開発者のディオンが社内中から賞賛されていた。
その一方でディオンは、全く別の人工知能の開発に勤しんでいた。
自分で学び、成長する、知能をもったAIプログラム。
そしてその人工知能の開発はとうとう成功する。

しかし、上司はその人工知能のインストールを認めてはくれなかった。
「武器をつくる会社で、美術品がわかるロボットの話?」

ディオンは廃棄処分予定であったスカウトを一台盗み出し、
自分のつくった人口知能をそのスカウトにインストールしようとする…。


*********************************************************


この監督の映画を観るのは『第9地区』以来だ。
『第9地区』をみたときはなんだか悲しい気分になった覚えがある。
それはおそらく、大学の授業を思い出したからだ。
ヨハネスブルク、世界で一番治安が悪い都市の一つ。
Wikipediaにもそう書いてあるのでおそらくそうなのだろう。

自分にはどうにもできない事実をただつきつけれても、
どうすればいいかわからず戸惑うだけだ。
今、思えば私はあまりにも
『第9地区』をエンターテイメントとして観ていなかったのだろう。


『チャッピー』は素晴らしいエンターテイメントだ。
笑えるし、ちょっと泣ける。

キャラクターもすごくいい。
ストイックで生真面目な開発者。
プライドの高い憎悪で怒り狂うライバル。
利益だけしか追い求めない上司。
120%のギャングたち。

世の中には言葉でうまく説明できないことだらけだけれども、
言葉で説明できるのはとても素晴らしいことだ。
わかりやすくて、夢中になれる。


絶望の繰り返しの中、この映画には希望がある。
最後にわたしたちをきちんと救ってくれる。
監督のやさしさかな。







Apple Storeに行った件

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iPhoneが壊れたのでApple Storeに行った。

東京には渋谷と表参道と銀座にしかApple Storeがない。

一番近いのが渋谷なので渋谷に行った。

銀色のリンゴの看板、お店に入ると陽気な(おそらく短パンを履いていた)お兄さんが、「どうしましたか〜?」と心配そうな顔で近づいてくる。
「SIMを認識しなくなってしまって」というと、「あら〜それは大変」とまた、いかにもな顔をして対応してくれる。すぐにインカムでどこかに連絡をする。

「実は今日、上のサポートは終了してしまっているんですよ、」と言っていたが、ひとまず待たされ店員に支給されているらしきiPadにアドレスやらを入力する。

「一緒に上に上がってきてもらっていいですか」と陽気なお兄さんと一緒に二階へあがる。

すると今度は別の女性の方が案内をしてくれる。「本日サポートは終了してしまっているのですが、ひとまずご案内できるスタッフがいるかどうかだけでも確認しますので、少々お待ちください。最悪21時まで待って頂くかもしれません。」

お店の閉店時間は21時。20時過ぎに来店したので、まぁ私は仕方ないと思い、特に予定もなかったので大丈夫だと言って待つ。

多少は待ったのだろうが、それほど時間もかからず、今度はまた別のテーブルに案内され、別のスタッフがやってくる。

慣れた対応で、落としましたか?水には濡らしてないですか?まずはデータを全部消してみるのが最初にやることなんですが、大丈夫ですか?ー大丈夫です。とあっという間にことは進む。

フロアには他にもたくさんのお客さんと店員がいて、それぞれがそれぞれ対応を受けている。

全員同じ機械を持って、同じような悩みを抱えた人たちだろう。

壊れたiPhoneを取りに来る人々、iPad、MacBook、同じ形のリンゴのマーク。

なんだかとても不気味な場所だなぁと思いはじめてしまい、iPhoneを使ってる自分に対して、少し嫌悪を抱いていた。

以前、iPhoneからAndroidに機種変更をした友人がいた。

「なんか宗教みたいで気持ち悪くなっちゃって」


ふと、電脳化された世界の物語を思い出した。


私のiPhoneは初期化の手順が須らく進み、全く元の状態にリセットされた。

しかし、直らなかったので、中身開けると言ってまたテーブルで待つ。


結局水濡れのため、本体交換となり、全く同じ形の新しいiPhoneがやってきた。

「本当は40000円かかるところ、Applecareというものに加入しているので7800円で交換できるんで。」

「はい」



家に帰って、iPhoneをバックアップから復元する。すべて使っていた状態まで巻き戻り、元どおりになった。

これは一体なんだかすごく恐ろしいことなのではないかと思いつつ、またいつものようにiPhoneを手にする。




『幕が上がる』

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『幕が上がる』(2015)/本広克行



映画が終わった後、緞帳が降りる代わりにライトがついて拍手が聞こえた。

隣の席、男性二人組は「なんで拍手…」と笑っていたけど、目には涙を浮かべてて、それを拭いながら喋っていた。

周りを見ると男の人も女の人も泣いていた。
涙の理由は説明できないけど、涙が出るのはすごくよくわかった。


演出的に優れているだとか、映像的に素晴らしいだとか、ではなくて。


ただ、私たちは見せつけられる。
なぜだか、全編を通して涙がでそうになる。
それはきっと、スクリーンの中にいる少女たちが、本物、だから。

ももいろクローバーZというアイドルの枠組みを超えて、彼女たちは圧倒的に、ただの少女だった。


今しかできないことを堂々と見せつけられた時、私たちは感動して、立ちすくむ。

一度過ぎ去った時間は二度と戻ってはこないけど、そこにもう一度夢をみる。

まさに「青春」という文字が浮かぶ。

それは少し照れくさい、けれど、まぎれもなく美しい。

過ぎ去った時間に私たちは何を思う。

少女たちのまっすぐな瞳がつきささる。


吉岡先生が、自分のために生きると決めた強さに胸を打たれる。
それと同時に、気が付く。


ああ、こんなにも目の前に広がる青春から遠ざかってしまったのだな。


もう取り戻せないもの。
その大きさと比例して、スクリーンの中の少女たちの輝きは増す。


大人が大人でなくなる瞬間を、彼女たちは目撃する。

誰もがそうだったように、吉岡先生もまた、以前は少女だった。

そして再び輝き出す。

いま、輝いている。

黒木華さんの自信に満ちあふれた演技に、息をのむ。
役者としての彼女がそこにはありありと表現されている。



誰もが以前は少女だった。
それはむかしもいまも、ずっと同じ。





2015.3.8









『おんなのこきらい』こじらせ女子考

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『おんなのこきらい』(2015)/加藤綾佳



そう貴方は
世界一可愛い可愛い、
でもそれじゃ世界
変わらない変われない
もう一つほしいな、
なんて贅沢なの

女の子は
世界一可愛い可愛い
って言われたくて
変わりたい変われない
そう世界を変えればいいの
だからこの話はもう終わり


「かわいいだけじゃダメみたい」/ふぇのたす



キリコ(森川葵)は自称、他称、とってもかわいいおんなのこ。
そんなキリコはどう振る舞えば自分がかわいいか、男にちやほやされるか
すべて計算でわかっている。実際かわいいもんだから男も放っては置かない。
会社の女上司からは煙たがられるが、キリコはそんなこと気にもしない。
「だって私はかわいい。おんなのこはかわいくないと意味がない。」

見た目は最強かわいいけれど、性格最悪のおんなのこ、
キリコに訪れる幸せ?不幸?な物語——。



**********************************


かわいい女の子がぶりっこしている姿は、
女性も男性も誰しもが一度はみたことあるだろう。

そして思う。
「ああ、かわいいなあ」「ああ、むかつく」「ああ、うやらましい」
おおまかに言ってしまえば、大抵この三択になるのではないだろうか。


この映画に出てくるキャラクターはわかりやすくわざとらしく上手に描かれている。
性格も、見た目も、とても的確に。


だからこそ意外性がない。
出てくる登場人物は映画にでてくるままの印象でしかない。
そして、そここそがこの映画のポイントである。

あまりにも明確に作り込まれているキャラクター。
キリコ(勘違いメンヘラちゃん)をはじめ、キリコを疎む会社の先輩(こじらせ女子代表)、キリコにひそかに憧れている後輩(メルヘンちゃん)、
キリコと恋愛ごっこをするバーの店長(ヤリチン)、その恋敵の女の子(メンヘラビッチ)、その女の子に恋をする男の子(残念男子)
キリコをちやほやする男たち(ノーマルおよび肉食男子)、その男たちとは違う男の子(草食系アート男子)

それぞれの人物は、わかりやすく演出され、
それぞれが物語の中で意味をなすために存在している。
型にはまったキャラクターはそこからはみ出すことない。
リアル、ではない。


それは、森川葵本人のかわいさが演出を超えてしまっている。
ということでもある。

いくら綾瀬はるかがこじらせ女子を演じても、能年玲奈がオタク女子を演じても
「結局かわいいじゃん」で片付けられてしまうような話と似ている。
本人のかわいさが映画の中のつくられた「かわいい」を超えていると気付いてしまう。

だから私も途中までそう思っていた。


あれ?と感じ始めたのは
好きな男に振られボロボロになったキリコの部屋に幸太が訪れ、
固定のアングルで繰り広げられる長回しのシーン。

引きのアングルで部屋を映しているため、役者の顔はよくみえない。
ましてやキリコは後ろ姿だ。表情は一切みえない。
嗚咽を伴い、なきじゃくるキリコを、言葉数少なく励まし続ける幸太。
今までリアルを感じられなかったこの映画にはじめてリアルを感じた。
二人の距離感や、キリコの言葉にはなっていない言葉、
顔はみえないけど、きっとぐっちゃぐちゃの顔をして泣いている。
キリコというキャラクターと森川葵という役者が溶け合っている瞬間だった。

キリコと女優・森川葵の化学反応。
私たちはきっと、映画の世界が現実と区別がつかなくなったとき、どきっとする。
役者が役者としてみえなくなった瞬間、あれ?と感じる。

これはキリコ?森川葵?

つくりこまれたキャラクターの中で、
私たちが自然体だと感じることができるのは幸太の存在だった。

キリコが本当の自分を知っても突き放すことのない幸太に惹かれていくことは、
キリコを完璧に演じる森川葵が、自然体である幸太(=木口健太)
との触れ合いの中で、型にはまった演出から抜け出していっているようにも感じる。


計算された監督の脚本や演出と、意図されなかった役者の魅力が混ざり合い、
この映画の素晴らしいバランスを保っているのでないだろうか。


そして、この映画に一貫してにじみでている
究極のメッセージは「おんなのこきらい」これに尽きる。



2015.2.24


ぶっちゃけ、テラスハウスも”Goose House”からはじまったでしょ

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光るなら/Goose House

いまや、CM、アニメのタイアップなど、
ひっぱりだことなっている彼らを知っているだろうか。
それぞれシンガーソングライターとして活動している
彼らは週に一回、集まってUstream配信を行う。

その場所、そして彼らが”Goose House"である。

”Goose House”という名前の通りその場所は
歌に希望を込めた若者=Goose(ガチョウ)が集まり、
いつかはきれいな白鳥として飛び立つことを夢みる部屋(=House)である。

彼らは主にカバー曲を演奏し、うたう。
彼らによって再構成された曲は、オリジナルとは違った魅力をはなち
みる人、きく人に届けられる。

既存の曲を再構成して発信すること、それを受け取る私たちは
歌い手である彼らが、我々と同じ聴き手であることに気が付く。

その曲の魅力を十分に理解した演奏やうたは、
同時に彼らの魅力も引き出しながら私たちに届けられるのだ。

彼らが配信したカバーソングの動画はYouTubeに数多くアーカイブされ、
その再生回数は250,000を超えるものも多い。
アニメ「四月は君の嘘の」タイアップとなった
Goose Houseオリジナルソング「光るなら」は5,000,000再生を超える。




インターネットコミュニティの著しい普及は私たちに新たな文化や表現を与える。
YouTubeとニコニコ動画がほぼ同時期にサービスを開始したのは2006年、
ほんの10年も経たない前のことである。
その当時、利用者はある特定の
ーいわゆるオタク的あるいはアダルトなジャンルーコミュニティ利用者だった。

投稿されているものは
いまでは違法アップロードと呼ばれるアニメ動画や
そういったアニメの切り貼りに別の音楽をのせて再構成された
MADと呼ばれる動画などであった。

2007年、VOCALOID<初音ミク>の登場により、
そのオタクコミュニティは、いままで秘めていた才能を一気に開花させる。

初音ミクに歌を歌わせることは<調教>という言葉で表現され、
タグ付けと呼ばれるその動画をあらわすキャッチフレーズがつけられる。
人気の曲には<神調教><プロの犯行>などといったタグがつけられ、
またその曲に対して、イラストが描かれたり、アニメーションがつけられたりした。
曲をつくる制作者はP(プロデューサー)とよばれ、
人気なPが新曲をだすとランキングはすぐに上位にあがる。

現在、当時人気を誇っていたPは、
アーティストに楽曲提供をしたり、演奏家として、活躍している。

また、初音ミクを通じて作られた楽曲に対し、
生の人間が歌い直したり踊りをつけたりする新たな表現方法もはじまる。
<うたってみた><踊ってみた>とタグ付けされるそれらは、
新たな才能の発見の可能性となった。

「いいね!」された一つの曲を通じて才能を提供しあい、
色づき合っていく関係性。これはインターネットが生んだ結びつきである。

初音ミクをはじめ、ヒャダイン、super cell、でんぱ組inc.など、インターネットを媒介とするオタク的コミュニティからの発信、あるいはそれを利用していた受け手が発信者となる例は珍しくない。


しかし、それがいまの社会になじみ始めたのはごくごく最近のことだ。




既存のものを再構成し、発信するという表現が一般に評価されはじめるきっかけに
”Goose House”という存在があったことも少なからず関係しているだろう。

知らず知らず、水面下では刺激しあっている。
そしてまた、模倣から新しい表現が生まれ、新しい才能が発見されていく。



4月から全国ツアーがはじまる”Goose House”。
それぞれもシンガーソングライターとして自らの表現を続け、
Goose Houseとしても新しいアルバムをひっさげて全国をまわる。
カバー曲を歌う彼らはあくまで、歌が大好きな少年や少女と変わりない。
歌い手として、彼らはもうそれぞれが立派に羽ばたく美しい翼を持っている。




2015.2.22


岡本羽衣 個展『ありうる』

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岡本羽衣 個展『ありうる』
トークイベント「記憶と忘却」
ゲスト 飯山由貴




住宅街の中の小さな民家の前に小さく看板が出されている。
入り口には本個展の作家である岡本羽衣が立っていた。


展示スペースに入ると
右側に小さめの額が4つ
左側にパノラマの写真
天井には下半身だけ飛び出た男のオブジェ
床にはその男が残していったであろう靴や時計が置かれている。

小さめの額に入っているのは
海外の古い写真
(ペンダントの中に入れる丸く切り抜かれたものと、額縁のついた四角いもの)
に噛まれたガムが意図的な形で貼付けられている。

左のパノラマ写真はどこかの風景
その上にガラスが一枚あり、そのガラスは黒い液体で
めちゃくちゃに塗りたくられていてその下の写真に関してはよくみえない。

天井にぶらさがった男の下半身は妙にリアルで、少し気味が悪い感じである。

後ろの方でほかのお客さんに
「これはこの男がこういう(展示されているものに対して)行為をしていったあとだ。」
と説明している展示主の声が聞こえた。


その後、飯山由貴さんとのトークショーがはじまった。

今回の展示では、
既存のモノー今回に関しては、19世紀アメリカの肖像写真ーに手を加え、
それを作品として展示をしている。

例えばその肖像写真は、当時の彼または彼女をとりまく人および本人が、
写真をつよく遺したいという思いから、現像されたものである。
当時、いまのように気軽に写真を遺せる時代ではない。
その写真は過去にも現在にも属せない不透明な存在であると作家はいう。
名前もわからない彼らは、今なぜか日本の小さな民家でガムをつけられ飾られている。
なにかしら人の想いがあって撮られたその写真は、いまや物質としてとらえられている。
そこに手を加えることによって、写真に映った彼らに実体を与えたい、
僕の手によって現在にひっぱりだしてやりたかった。と作家はいう。
また、写真の上から写真を覆うように塗りたくられている黒い液体。
それによって私たちは写真をみたいと思っているのに、写真をきちんとみることができない。
そのときすでにその下にある写真は、こういう写真です、という認識とは別のものとして
成り立ってしまっている。黒い液体とともに別のものに姿を変えてしまっている。
本来の姿ではなく、そこになにかあるけれどよくわからない、不透明な存在である。
そしてその写真はもう、見る人全員が同じ感覚でみることはなくなる。
我々が目の前にあるものを認識するためには、周囲と共通の認識が必要である。
例えば、目の前にコップがあったとして、それは誰しもがコップだと知っている。
コップとは液体を入れる器で、その素材はガラスであったり、プラスチックであったりする。
そういう認識が我々には共通で存在していて、それが当たり前だと思っている。
しかし、中にはその認識が不透明なものもある。
例えば今回の肖像写真ー羽衣は「遺影」と説明したーである。
はっきりとした形のものがなにかのきっかけに不透明になる。
不透明なものがなにか別の形になる、それは「ありうる」。

架空の男が行為を加えたという前提の中で、
彼の作品をみるひとは考える。そこには既存のものに手を加えるうしろめたさがあるのかと。
作家はそうではない。と答える。そこにそこまで抵抗はない。

今回使用した肖像写真はネットオークションから手に入れたものだという。
それを選ぶ基準は作家本人のインスピレーションだ。
あ、この人いいな、とかそういった感覚で選んでいるらしい。
その写真は物質としてとらえていて、当時の記録という感覚はそこまでないという。

人の記憶とは経験と知識から構成される。
私たちが遠い昔の歴史を知っているのは義務教育で学んだ知識からだ。
でもその当時の事実なんて現在の世界に生きている人は何一つわからない。
それは伝聞や、誰かの日記や記録、のこされた物質をたよりに、再構成されたものである。
だから私たちは自分が生まれる前のことなど知るはずもない。
なんで知っているのかがわからないと、飯山さん。

飯山由貴さんは他人が作成したスクラップブックを利用した作品を展開する作家のようだ。
飯山さんはそのスクラップブックを扱う恐怖について語っていた。
おそらくそこにはとてつもない情報が詰まっている。
それを解き明かしていくことは、ときに恐ろしいことであると。
そして他人のスクラップブックに手を加えることはさらにおそろしくある。
だから今までずっとそれができなかった。しかし前回の展示ではそれをした。



展示に際して、作家本人の制作過程の心情を聞くことができるのはとても有意義だ。
今回のような、やや抽象的なインスタレーションの展示であったりするとなおさらである。
私たちが普段みることが多い映画やドラマ、漫画、音楽、絵画、洋服やらデザインというものは
作品として最終形であり、それそのものに意味や価値が付随するものであることが多い。

作品という結果に対し、作家がどう考え取り組み制作を行ったかという過程を知らずして、作品の真意を知ることは今回でいえばほぼ不可能である。
あくまで私が知ることができるのは、ほんの上澄みに過ぎないが、ほんの上澄みで世界はぐんと広がるのだ。

上手な絵を描いたり、美しい写真を撮ったり、表現とはそれだけではない。
過去の歴史を選択することであったり、記録をひっぱりだしてくることであったりもする。





駅まで向かう帰り道、虹色に光るスカイツリーが途方もなくそびえっていた。
なんだかそれがとても不気味でいやらしくみえて、少し腹がたった。





2015.2.21



『ワンダフルワールドエンド』

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『ワンダフルワールドエンド』(2015)/松居大悟

純粋なものは純粋なままでいられない。


小さな芸能事務所で細々とモデルの仕事をしているしおり(橋本愛)は17歳。
田舎から上京し、劇団員の彼氏コウスケ(稲葉友)とアパートで同棲をしている。
しおりは生放送のチャットをひっそりと配信するのが日課だ。
もちろん彼氏がいることはチャット視聴者には知られてはならない。
チャットや撮影会など、ファンの前では自称かわいいキャラを演じている。
しかし、そのキャラもそこまで人気があるわけでもなく、
撮影会で着て来たゴスロリ服のウケも悪い。事務所の社長には注意される始末だ。

いわゆる、しおりはうだつの上がらない地下アイドル。
でも彼氏はいるし、チャットを開けば特定のファンもみてくれる。
満足はしていなくても、それなりの生活だった。


あるファン撮影会の日、
しおりと同じゴスロリの格好をした少女が、しおりをずっと見つめていた。

その少女はいつもしおりのチャットにコメントをくれるami☆=亜弓(蒼波純)だった。

ある日、家に帰るとなぜか亜弓がコウスケと一緒にいた。
家出をしてきたという亜弓はそのまま二人の家に居座ることになり——。


******************************************************************************************


”少女”という存在は純粋の象徴だ。
みんな純粋なものが好きだ。
例えば、ある少女がアイドルだとする。

アイドルには彼氏がいてはいけないし、
彼氏がいれば叩かれる。処女じゃなければがっかりされる。

アイドルとは消費されるべき存在でありながら、
消費されることを嫌われる。誰のものであってもいけない。

しおりもそういう少女を演じていた。
純粋である自分を演じることで、アイドルでない自分の生活とのバランスをとっていた。

本当に純粋なものに出会ったときに、
純粋でなくなってしまったものはどうなってしまうのか。


この映画は感情を言葉では多く語らない。
細かな表情のインサートや、演出がとても秀逸に感情を表現している。
むしろ言葉にしてしまったら、その繊細さは失われてしまうとわかる。
言葉にできない気持ちが伝わってくる。


大森靖子は純粋と狂気。
汚い気持ちもきれいな気持ちもうたってしまう彼女の歌はこの映画そのものだ。
大森靖子こそ、彼女たちー例えば売れない地下アイドルーの代弁者である。
恋もするし、セックスだってする。ネットカフェに泊まるし、うんこだってする。
磨り減りながら、発信し続ける彼女は、アイドルの鏡だ。


しおりが出会った、亜弓という少女は何も知らなかった。
自分が好きな人が正義でその人が好きなものがすべて正義だった。
好きな人の好きなものを好きになることが正しさだった。

しおりはそんな”純粋”に出会った。
”好き”という本当の言葉の意味を改めて理解した。
誰かを想うということはこんなにもまっすぐで壊れやすい。



危うい彼女たちはなぜかとても美しい。





橋本愛がうたう大森靖子の曲も一見(聴)の価値ありである。
東京の片隅、少しリアルなおとぎ話。
『ワンダフルワールドエンド』







2015.2.15

窓辺

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その日、東京には雪が降っていて
もう半分は溶けかかり、雨になっていた。


平日だったけど、私は仕事が休みで
映画を観に行こうと出掛けた。


クリスマスも、年越しも、正月も過ぎた冬の平日は行くあてがない。

明日もあさってもずっと、このままやるせない雨が降っていて、
そしてそれは遥か昔からそうだっかのように錯覚させる。

駅までに通る住宅街の路地は、人ひとり歩いていなくて、余計に感傷に浸らせた。


おばあちゃんのことを思い出していた。


毎日作ってくれた夕飯。
あんまり好きじゃなかった生姜焼き。

残しちゃ悪いと思って残さず食べていたけど、
今では好きになった。

衣がふにゃふにゃのエビの天ぷら。
ドクターマリオがとても強かったり、

蹴鞠がすごく得意だったり、
午後のテレビを観ながら居眠りしている姿や、
おやつに作ってくれた薄焼き。
水色のエプロン。
病院。


冬に外で泣いたら涙が凍りそうだ。


路地を抜けて商店街にでると、

それなりに人もいて、自分の勘違いじみた思考が恥ずかしくなる。
時間は相変わらず間違いなく進んでいる。


今日観る映画はどんな映画だろうか。
やってきた電車に運ばれて、私は映画館を目指した。



IKEA BIRRYの棚を自作してみた。

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題の通り、やってみました。

IKEAのBIRRYと言えば、棚がしなると有名(らしい)ですが、
それ以前に付属の棚板の枚数が足りない、そう思っていました。

あとから調べたところ追加で一枚1000円で購入できたらしいのですが、
今更そのためにIKEAに行くのも一苦労。持ち帰ってくるのも一苦労です。

というわけで、いっそつくってしまえ。


まず、ホームセンター(島忠)にて板を購入。
私は元々の棚を見本に持っていきました。

4枚追加の予定だったので、
「このサイズで4枚作りたいんですけど…」
と店員さんに相談したところとても丁寧な対応で
一番安く4枚の板を切り出せる、元となる木材を選んでくれました。

BIRRYの付属板は65.5x23.5
厚みは1.7mmほどです。
その板を4枚切り出すための木材は約3000円で購入しました。

元の板よりは若干厚みが足りなかったのですが、
品質的には問題なさそうだったのでそちらを購入。

私は見本の板を持っていっていたので
店頭でサイズを測ってもらうことができましたが、
本来ならばあらかじめ寸法を測っていくのがベストです。

最終的には木材加工の注文票があり、
そこに切り出しサイズを記入する必要があります。

加工自体は1枚65円と格安です。
ただし、直線の切り出しのみです。

つまり棚にかませるための溝は自分で加工せねばなりません。

まあなんとかなるだろうということで彫刻刀を購入。800円程度。

そしてここでミス。
本棚の穴にいれるあの金具。
あれのサイズが全く不明なことに気付きました。

しかも売り場に行くとサイズはかなり種類がたくさん…。
値段が高くないものだったのでとりあえずサイズ違いでいくつか購入しました。

 

(購入したのは4x5.5mmと5mmのもの、おさえで木製のダボも買いました。)

こちらは1袋150円くらいなのでまあ無駄になっても仕方ない…。
売り場にはサイズを測る器具も置いてありますので、必ず見本をもってくることをおすすめします。(ちなみにどれもサイズ合いませんでした…。)




そして、切り出された木材がこちら。

寸法は全く同じに切り出してくれています。


あとはこの元の板のように溝をつくっていくだけです。




まずは同じ箇所に印をつけます。
(結構適当です。)

あとはがしがしと彫刻刀で削っていきます。

気をつけたのは元に溝を合わせることよりも、その板の中での溝が均一になっているかということです。



一つの溝を作るのに10分弱程でしょうか…。
この作業、結構疲れました…。

そして4つの溝を掘り終え、本棚に置いてみたところ
ぴったりでした!!特にガタガタするこもありませんでした。

問題はサイズの合わなかった、金具の方です…。
元々のものよりもかなりサイズが小さいものを選んでしまったのでスカスカな状態です。そこで穴に入る部分をセロテープで厚くし、はめてみたところ、ぴったり!!
小は大を兼ねました!!

おそらく本体のダボ(金具)は6.5mmとかでしょうか…。
結構太めです。

ということで無事追加の板をつけることができました。
少し手間はかかりますが、年末に本棚も整理できて満足です。

木材+加工費で3500円
彫刻刀が800円
ダボが500円

私は無駄な買い物もしたので、
4枚分では少し高くついてしまいましたが…。
道具を持っている方でしたら正規購入よりも安くすむかもしれません。

BIRRYの板がしなりすぎてこの際全部取っ替えてしまおうかとも思いましたが(しません)。
もしそんな方がいたら、少しでも参考になると。
ダボのサイズなど焦ってネットで探したけど出てこなかったので…。